今回の目次
島根氷川神社の興味深い御由緒をご紹介
御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
島根氷川神社のご紹介は前回をご覧ください。
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今回は島根氷川神社の御由緒のご紹介です。
島根氷川神社の御由緒ですが、たいへん興味深いものがあります。
島根氷川神社の御由緒のご紹介
島根氷川神社は武蔵一宮氷川神社の姉宮だった?
武蔵一宮氷川神社は大宮にある氷川神社のことです。
全国の氷川神社の総本社ですね。
その武蔵一宮氷川神社と島根氷川神社が、姉弟の関係にあるということでしょうか。
姉弟関係とはもちろん、須佐之男命と天照大御神の姉弟関係を指すと推察できます。
そうなるとこちらの島根氷川神社の本来の御祭神は天照大御神であったとも考えられます。
こちらは別段不思議なことではありません。
というのも、この後ご紹介させて頂く神社でも触れるのですが、さいたま市南西部には神田(じんで)という地名があり、
かつては伊勢の神宮に奉納する稲を育てる田んぼがあったのです。
それはすなわち、天照大御神に捧げる稲となります。
(収穫した稲を浦和にある調神社に奉納し、調神社から伊勢の神宮に奉納する)
ですので、島根氷川神社の御祭神が天照大御神であってもおかしくはないのです。
(その場合は神社の名称も神明社だったと思われる)
そしてもう一つ考えられる突飛な説は、
姉弟の関係が荒脛(アラハバキ)にあったとすれば・・・です。
荒脛(荒脛巾)とは、須佐之男命(出雲系民族)が現在の埼玉に進出する前に埼玉を治めていたと考えられる先住民の神様と思われます。
(そもそも私がよく分かっていないので掘り下げない)
しかし説として、須佐之男命(出雲系民族の神)とアラハバキ(先住民の神)が良好な関係を築くために、大宮の氷川神社に須佐之男命を弟神として、島根の氷川神社にアラハバキを姉神(先住民だから姉)として互いに祀った、ということも考えられなくもありません。
そう考えると、
摂末社の四社に荒脛社があることも頷けます。
(もっとも天照大御神を祀る神明社もあるんですけどね)
『お后盗み』は恋の話か武勇の話か?
由緒書き(略史)には『お后盗み』という話が綴られています。
抜粋しますと、
第五十二代嵯峨天皇(在位809~823)の弘仁年中、
当所(現在の島根氷川神社がある地と思われる)の豪族の足立太郎秀盛が朝廷に衛士として仕えていたと。
その秀盛が、植田谷本村(下地図参照)から
(現代でも島根氷川神社に隣接しているみたい)
朝廷に奉られていた采女(うねめ)(お名前は不明)と朝廷で出会い、互いの合意の上、故郷の足立(武蔵国足立郡のことと思われる)に帰ってしまった。
もちろん、帝はお怒りになり、追っ手の軍を差し向けました。
しかし秀盛と采女は(足立という)地の利を生かし、帝の軍は全敗したとのこと。
その後、秀盛は高鼻(武蔵一宮氷川神社が鎮座している地名)の氷川明神の神助を謝して自領の鎮守とした。
とあります。
ということは、秀森が采女とさいたまに戻ってきてから島根氷川神社は建てられたということですかね。
さて、
こちらの『お后盗み』ですが、壮大な恋愛ストーリーと見ることもできます。
だって秀盛は、当時の権力者である帝の采女を奪取したんですから。
采女とは帝の奥さんではないようですが、愛人のような存在であったと考えられます。
その采女を奪取するとは、秀盛もやるものです。
といった、秀守と采女の純愛の結果、時の権力者にさえ歯向かい、そして見事お姫様を奪取して故郷へ帰った。
めでたしめでた。と言えます。
ですが、
見方を変えれば、
この話は朝廷に歯向かえるほど武蔵国(出雲民族)の力が強大であったとも取れます。
そのことが、
地の利があるとはいえ帝の軍が全敗したこと。
秀盛が采女を奪取した後、須佐之男命を御祭神とする氷川神社を鎮守としたこと。
から想像できます。
そう、前回でも少し触れましたが、須佐之男命は武の神様の側面も持っていたはずなのです。
もしこの週末ただたか説が一理あるとすれば、
国譲りが終わった後も、やはり朝廷にとって出雲民族は大敵であったと考えられなくもありません。
島根氷川神社にも磐舟祭(御船祭)がある!?
由緒書き(社史)に
一宮氷川明神の御船遊神事に倣った同様の神事が(島根彦根神社でも)近世まで行われていた
とあります。
こちらの氷川明神の御船遊神事とは、おそらく氷川女體神社の磐舟祭を指すと思われます。
磐舟(いわふね)祭といえば、氷川女體神社で催行されていた祭です。
現在では祇園磐舟竜神祭とお名前を変えて、近年復活しています。
もちろん週末ただたかでもご紹介していますので、興味のある方はどうぞご覧ください。
こちらの御船遊神事に倣った神事は、島根氷川神社では近くの鴨川で行われていたようです。
ちなみに現在の鴨川の様子。
かつてはこちらの川を、神様をお乗せになった舟が進んでいたのでしょうか。
島根氷川神社には以前から参拝してみたいと思っていました。
そしていざ参拝させて頂いたことで、様々な気づきを得ることができました。
やはり『須佐之男命』は、たいへん埼玉に関わりの深い神様であります。
もちろん、週末ただたかの説はなんの根拠もなく、時に独善的です。
しかしそれでも、週末ただたかは古代の日本の姿を求めて、一歩ずつ進んでいこうと思っています。
今後も突飛な説が飛び出すかと思いますが、どうぞご贔屓に。
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