船橋の神社③ 船橋大神宮(意富比神社)の御由緒と摂末社からの考察

船橋の神社③ 船橋大神宮(意富比神社)の御由緒と摂末社からの考察

御祭神
天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)

前回は船橋大神宮(意富比神社)のご紹介をさせて頂きました。
今回は御由緒と摂末社に焦点をあてて、超個人的な考察を進めていきたいと思います。
興味のある方はぜひご覧ください。
興味のない方は・・・つまらないかもです。

船橋大神宮(意富比神社)のご紹介はこちらをご覧ください。

ほぼ直線上に並ぶ船橋の神社に興味のある方は前回をご覧ください。




船橋大神宮(意富比神社)の御由緒から見る御祭神と大神宮の名称

船橋大神宮(意富比神社)ですが、公式ホームページにたいへん力が入っています。
御祭神や御由緒、摂末社に関して分かりやすく説明してくれています。
公式ホームページをご覧頂くのがいちばん分かりやすいかと思うのですが、週末ただたかでも公式ホームページの情報を土台に超個人的な考察を進めていきたいと思います。

船橋大神宮(意富比神社)の御由緒

正式名を「意富比神社(おおひじんじゃ)」という当社は、通称「船橋大神宮」として
長く船橋市民に愛されており、初詣には多くの人で賑わいを見せます。
一字一音表記時代の名残をとどめる、1900年以上の歴史を持つ古社でもあります。
毎年10月20日には例大祭が催され、神楽の奉納と徳川家康公の上覧相撲に始まる
400年以上の歴史と伝統のある奉納相撲が行われます。
また、境内にある灯明台は木造建築で高さが12mほどあり、
船橋のシンボルのひとつとなっています。
船橋大神宮ホームページより引用)

なんと驚くべきことに、船橋大神宮(意富比神社)は1900年もの歴史を持つとされています!

この歴史の深さは、国内でも有数だと思われます。

ちなみに、
武蔵一宮氷川神社が2400年ほど前の創建とされています。
鷲宮神社は関東最古とされ、3000年以上の歴史があるとされています。

須佐之男命を祀るに興味のある方はこちらをご覧ください。

関東最古とされる鷲宮神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

さて、
超個人的な考えで恐縮ですが、2000年近い歴史を持つ神社に共通することとして、

神社の形を取る前から何かしらの施設があった

といった考えを私は持っています。
武蔵一宮氷川神社もおそらくはもともと土着の民族(アラハバキ?)の何かしらの施設であり、
鷲宮神社も土着の民族(縄文人?)の施設であったと考えています。

千葉の房総半島にある玉前神社や橘樹神社からも、同様のことが考えられます。

千葉の房総半島の神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

そしてその私の考えに似た文言を、船橋大神宮(意富比神社)のホームページに見つけました。

船橋大神宮(意富比神社)の始まりの形

さて、
ここで船橋大神宮の正式名称である『意富比神社』の意味を見ていきましょう。

この意富比の語義と神格について古くは、「大炊」で食物神とする説があり、戦後は古代豪族オホ氏の氏神とする説などが出されました。その後、意富比の古い読みは「おほひ」であり、上代特殊仮名遣いの上から「日」は「比」等で表され、「火」は「肥」等で表される点を考慮し、さらに歴史的にみても意富比神社が古くから太陽信仰と深い関係をもっていたことを考察に加えて、意富比神は「大日神」すなわち「偉大な太陽神」が原義であるとする説(三橋健「意富比神考」)が登場します。つまり中世から幕末までは一般に「船橋神明」と称され、主祭神を天照皇大御神とする意富比神社も、原初は古代のこの地方最大の太陽神であったとするもので、現時点では最有力な説となっています。
船橋大神宮ホームページより引用)

意富比神は「大日神」すなわち「偉大な太陽神」が原義であるとする説

なるものがあるようです。
そしてその説が、田時点では最有力であるともあります。

このことを超個人的にとらえますと、

そもそも原住民が太陽を崇めていた何かしらの施設

ととらえることができます!
太陽信仰は世界各地で見られますので、船橋の地で太陽信仰があったとしてもおかしなことではありません。
(そもそも天照大神も太陽信仰の一つの形と考えられますし)

さて、
船橋大神宮(意富比神社)がもともと太陽信仰の施設のようなものであったことから、現在の御祭神が天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ=天照大神)であることも分かってきます。

意富比神社が船橋『大神宮』と呼ばれるようになった理由

 前記のように、当社は中世以降一般には船橋神明と呼ばれることが多かったようです。神明とは伊勢神宮を分祀した神社のことです。
すると、古代には当地方最有力の太陽神であった意富比神が、中世のある時期に伊勢神宮に同化したと想定されますが、そのあらすじは次のように想定されます。 —平安末期に近い保延4年(1138)に夏見を中心とする一帯が、伊勢神宮の荘園「夏見御厨(みくりや)」となった。実際には当地から伊勢神宮へ白布を貢納した。そうした関係から、当地には伊勢神宮が分祀され「神明社」ができたが、その御祭神は言うまでもなく、最高の太陽神である天照皇大御神であった。やがて地元の偉大な太陽神は、同じ太陽神である神明社に同化して船橋神明となり、船橋大神宮と称されるようになった。
船橋大神宮ホームページより引用)

週末ただたかでは折に触れて御祭神の変遷の考察をしておりますが、やはり船橋大神宮(意富比神社)でも御祭神の変遷はあったと考えられます。
(もっとも多くの神社で御祭神の変遷はあったのでしょうけど)

もともと船橋大神宮(意富比神社)で祀られていた神様は『偉大な太陽神』だったのでしょう。
それが時を経るにつれて、大和朝廷の太陽の神様である、天照皇大御神(=天照大神)へと変遷していったと考えられます。

これはつまり、ある時期に大和朝廷による土着の民族への侵攻があったことを示しているとも取れます。
もっとも、侵攻は穏やかに行われた可能性も多分に考えられます。

神社の御祭神の変遷に興味のある方はこちらをご覧ください。

船橋大神宮(意富比神社)の御由緒から見る摂末社との関係性

船橋大神宮(意富比神社)の御祭神が天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)となった経緯は、先述したとおりです。

そして天照皇大御神が御祭神となったことで、現在の船橋大神宮(意富比神社)の摂社との関係性も容易に見えてきます。

境内にある摂末社は、本殿を向いて右手と左手で大きくさの様が違います。

右手にあるのは天之御柱宮、豊受姫神社(外宮)、八坂神社、大鳥神社、常盤神社です。
御祭神はすべて天照大神に関わりの深い神々です。
すべて大和朝廷側とされている神様ですね。

本殿右手の摂社の御祭神については前回をご覧ください。

一方、
本殿の左手にある摂末社はおそらくすべて末社扱い(船玉神社は判断が難しいですけど)であり、一つの社に複数社が合祀されていたりします。
この扱いの違いからも、本殿の左手の神社は船橋大神宮(意富比神社)と関りが薄いことが推測できます。

しかし!
船橋大神宮(意富比神社)にある末社が、じっくりと見ると非常に興味深かったりします!

ここから先は船橋大神宮(意富比神社)の末社の超個人的考察です。
いっそう内容はつまらなくなる可能性もありますが、興味のある方はご覧ください。

船橋大神宮(意富比神社)の摂末社を超個人的に考察する

大鳥神社の社殿が西向きの理由は?

大鳥神社御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)

神社の社は、多くの場合南面しています。
社が太陽の方向を向いているとか、古代の中国で『天子南面す』という思想があったからとか、いろいろと理由は考えられますが、神社の社は一般的には南面していることが多いです。

ですが、
社が東面していることもあれば、西面していることもあります。
また、稀に北面している社もあります。
北面している社といえば、鹿島神宮や大國魂神社などがたいへん有名です。

社が北面している神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

さて、
東面や西面の神社というのは珍しくありません。(北面は珍しいですけど)
それではなぜこちらの大鳥神社が西面しているのが気になったのかというと、

数ある摂社の中で大鳥神社だけが西面だからです。

船橋大神宮(意富比神社)の本殿の右手には摂社と考えられる神社が五つあります。
天之御柱宮、豊受姫神社(外宮)、八雲神社、大鳥神社、常盤神社です。
これらの摂社の中で、大鳥神社だけが西を向いているのです。(他の摂社は南面)

どの摂社の御祭神も、本殿の御祭神である天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)と関わりのある神様です。
ですので本殿の右手に集中して、立派な社に祀られていることも納得ができます。

しかしなぜ、大鳥神社だけ西を向いているのでしょうか?

大鳥神社の御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)とされています。
しかし、
実は大鳥神社の御祭神は日本武尊だけではなく、天日鷲命(あめのひわしのみこと)も御祭神であるとされています。

天日鷲命はそのお名前が示すように、鷲の姿をした神様とされています。
そして個人的には、鷲宮神社の考察の際にも触れたように、天日鷲命はその鋭い猛禽の眼で何かを監視する役割を持つ神様なのではないかと考えています。

▶鷲宮神社と天日鷲命の考察はこちらをご覧ください。

それでは船橋大神宮(意富比神社)の大鳥神社に天日鷲命が祀られているとすれば、いったい天日鷲命はその猛禽の眼で何を見ているのでしょうか?

本殿右手にある摂社で唯一西を向いている大鳥居神社。

その視線の先にあるのは・・・何なのでしょうか?

本殿左手にある摂末社はよく見ると興味深い

本殿左手には多数の摂末社があります。

手前からご紹介していくと、

水天宮、稲荷神社、秋葉神社と古峯神社の二社。

神輿殿は、八坂神社神輿殿と八劔神社神輿殿。その右隣に金刀比羅社。

手前の五社が、
八幡神社、竈神社、龍神社、道祖神社、客人神社と多賀神社。

客人神社と多賀神社が合祀されているのが興味深い。
不明確な情報ですが、客人神社の御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)だそうで、多賀神社の御祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)だそうです。
相反すると取れる神様を同じ社に祀るのはどうしてなのでしょう?

続いて奥の五社が、
岩島神社と住吉神社。祓所神社と春日神社。鹿島神社と香取神社。安房神社と玉前神社。天神社と天満宮。

さて、
岩島神社がよく分かりません。
インターネットで岩島神社と検索をかけると厳島神社が出てきたりします。
合祀されている神社が住吉神社ですので、住吉神社とよく一緒にお名前を聞くことのある厳島神社が岩島神社と考えると納得できます。
(住吉神社も厳島神社も海上交通と関わりの深い神社なので)

また、
祓所神社と春日大社の関係性も気になるところです。
ですが今回は長くなるのでまたの機会にでも。
それにしても、祓所神社は三嶋大社の摂末社にあるんですね・・・。
参拝し損ねました。

安房神社と玉前神社もまた興味深い。
どちらも現在の千葉県にある一宮であり、御祭神のつながりも興味が惹かれます。
また安房神社に参拝させて頂いた際に、詳しく綴れればと思います。

奥にあるのは、

船玉神社。

こちらの社は写真だと分かりづらいですが、船の形をしているのです。

こちらの御祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)と考えられます。
弟橘姫命は日本武尊の奥様です。
そして日本武尊の航海の無事のために、自ら海へ身をささげたともされています。
そう、人身御供というやつですね。

日本武尊の奥様であり、千葉に関わりの深い弟橘姫の命を祀る船玉神社であれば、本殿の脇に鎮座されているのも納得です。

弟橘姫命に興味のある方はこちらをご覧ください。

そして右手手前から、
不明な社、石の社(援田比古とあるので猿田彦だろうか?)

産霊神社と水上神社。大國主神社と事代主神社。大山祇神社と阿夫利神社。岩長姫神社と新年穀神社。根神社と粟島神社。

さて、
合祀されているどの神社も興味深い神社ばかりですが、長くなるので一つだけ。

根神社と粟島神社の関係は興味が惹かれます。

粟島神社は淡島神社と同じであり、御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と考えられます。
少彦名命は大国主命の国土経営を援けたとされる神様であり、海の向こう(朝鮮半島と思われる)から渡ってきた神様ともされています。

根神社の御祭神に須佐之男命がいらっしゃます。
須佐之男命といえば、大国主命より以前に出雲を治めていたとされる神様です。
(大国主命の先祖や父、義理の父などいろいろ考えられる)

須佐之男命と少彦名命は出雲というつながりもありますが、海より渡ってきた神様というつながりも考えられます。
須佐之男命も海の向こうから来た神様だとも考えられるからです。

さて、
ここまでは少彦名命と須佐之男命の御祭神の観点からつながりを考察してきましたが・・・。

単純に神社のお名前が気になったりもします!

というのも、
『根』神社の『根』が気になるのです。

根から連想されるものといえば、根の国

そして根の国といえば、黄泉の国とされることが多いかと。
つまり根の国=死者の国
ですね。

というのも、
少彦名命は根の国に行く描写があるはずなんですよね。
つまり少彦名命は・・・。

しかし、
実は私は、
根の国=関東や東北
という考えも持っています。

なぜかというと、
大国主命が根の国にいる須佐之男命を訪ねる逸話があるからです。

この根の国が黄泉の国を指すことも考えられますが、上の逸話から大国主命が黄泉の国に行ったとは考えづらいのです。
(詳細は今回は割愛します)

それに、
大国主命が出雲の統治のために須佐之男命を訪ねたということは、須佐之男命が出雲を離れた後の話のはず。
そして出雲を離れた須佐之男命の行き先は・・・武蔵一宮氷川神社のある辺りと考えられる!
つまり現在のさいたま市ですね。

多分に私の想像の含まれた説なのですが、根の国=関東や東北という考えも捨てきれません。
だから『根』神社が千葉にあるとも考えられますし。

今後根の国や根神社に関する考察をさせて頂く機会もあるかと思います。
その際はより詳しく根の国について綴ることができればと思います。

船橋大神宮から大きく話が脱線してしまいましたが、最後までご覧いただいた方、ありがとうございました。

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