素戔嗚尊を祀る守屋総鎮守の八坂神社に参拝

素戔嗚尊を祀る守屋総鎮守の八坂神社に参拝

御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)

先日所用があってつくばエクスプレスの守谷駅に行きました。
この機会逃してなるものかと近隣の神社を調べたところ、こちらの守屋総鎮守の八坂神社を発見。
すぐさま参拝させて頂きました。

こちらの守屋総鎮守の八坂神社ですが、公式ホームページに力が入っています。
LINEで友達にもなれるみたいですよ。

今回は守屋総鎮守の八坂神社をご紹介させて頂きます。




守屋総鎮守の八坂神社へのアクセス

つくばエクスプレス守谷駅から徒歩12分ほど

周囲はのんびりとしているぞ!

いざ、守屋総鎮守の八坂神社へ参拝

つくばエクスプレス守谷駅から歩くこと12分ほどで到着。
こちらが鳥居なのですが、撮影者の腕がいまいちです。

鳥居の右手には八坂神社祇園祭とある由緒書きがあります。
祇園祭といえば京都の祇園祭が有名です。
こちらの守屋総鎮守も八坂神社であり、御祭神が素戔嗚尊(=牛頭天皇)ですので、祇園祭を行っていると考えられます。

境内はこのような感じです。

たいへん大きなご神木があります。
こちらのご神木は樹齢400年を越える欅だそうです。
そして不思議なことに、一度分かれた枝が結び合わさっているのだそうです。

古来より日本には『結び信仰』があるとされています。
この『結び信仰』ですが、映画『君の名は。』をご覧になった方はなじみがあるのではないでしょうか。
『君の名は。』も結びの物語ですからね。

さて、
こちらが本殿(拝殿)です。

また、境内には神輿殿もあります。

この中に祇園祭で使用される神輿がしまわれているのでしょうか。

境内はこじんまりとしているのですが、たいへんきれいでしっかりと管理されている印象を受けました。
守屋総鎮守の八坂神社は、宮司さんの真摯な姿勢が表れているかのようです。

守屋総鎮守の八坂神社の御祭神である素戔嗚尊について超個人的に考察する

守屋総鎮守の八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)とされています。

週末ただたかでは須佐之男命と表記することが多いですが(武蔵一宮氷川神社がこの表記のため)、素戔嗚尊は同一の神様とされています。

さて、
須佐之男命といえば武蔵一宮氷川神社に代表される氷川神社や、八雲神社、八坂神社の御祭神とされている神様です。
(関東圏の例。全国的には他の神社もありますが、私が参拝していないので割愛します)

武蔵一宮氷川神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

個人的な考えですが、あくまでも須佐之男命が元来の御祭神なのは氷川神社のように思います。
八雲神社も『八雲』というお名前から、もともと須佐之男命が祀られていた可能性も高い推測できます。

しかし、
八坂神社の御祭神は須佐之男命というよりは、牛頭天皇だと考えられます。

それは守屋総鎮守の八坂神社の説明書きにもあるように、

八坂神社の御祭神は明治以前は牛頭天皇だったとあります。

明治以前は・・・。
つまり神仏分離の前、ということになるでしょう。

かつて日本古来の神様と仏様が同一視されるのが当たり前の時代がありました。
神仏習合ですね。

神仏習合では須佐之男命と牛頭天皇が同じ神様とされていたのです。

これは見方によっては、時の為政者による御祭神の変遷とも受け取れます。
仏教伝来の際に、「今まで信仰してきた日本の神様と仏教の仏様は同じ神様なんですよ」といった理論を広めることで、スムーズに仏教を浸透させていったのだと思われます。

週末ただたか的には、玉前神社の御祭神の変遷と同じ考え方です。

玉前神社から見る御祭神の変遷に興味のある方はこちらをご覧ください。

素戔嗚尊=牛頭天皇のご神徳から超個人的に考察する

そもそも牛頭天皇とは。

インドの祇園精舎守護神。祇園天王,武塔天神,天王ともいう。スサノオノミコトの本地仏と説かれ,除疫神として,京都八坂神社,愛知津島神社に祀られる。
コトバンクより引用)

牛頭天皇は日本では疫病除けの神様として信仰されていたそうです。

なぜ牛頭天皇が疫病除けの神様とされたのかは分かりません。
しかし、
実は須佐之男命は疫病除けの神様という側面もあったります。
(須佐之男命自身が疫病神(=厄病神)とされたことから、転じて疫病除けの神様となったと思われますが、詳細はまたいずれ)

蘇民将来の逸話が有名ですね。

説話の主人公の名、転じて護符の一種。『備後国風土記(びんごのくにふどき)』逸文によると、須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来には迎えられて粟飯(あわめし)などを御馳走(ごちそう)になった。そこでそのお礼にと、「蘇民将来之(の)子孫」といって茅(ち)の輪(わ)を腰に着けていれば厄病を免れることができると告げた。はたして、まもなくみんな死んでしまったが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったという。民俗ではこの神は祇園牛頭(ぎおんごず)天王とも習合しており、八角柱の木片に「蘇民将来之子孫也(なり)」などと書いた護符の類を蘇民将来といっている。伊勢(いせ)地方などでは家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた注連(しめ)をかけて災厄除(よ)けとしている例も多く、また岩手県奥州(おうしゅう)市水沢(みずさわ)区の黒石寺で旧正月7日に人々が裸で蘇民袋を奪い合う蘇民祭などもよく知られている。
コトバンクより引用)

この蘇民将来の逸話が、現代の茅の輪くぐりにつながっているのです。

さて、
ここで守屋総鎮守が八坂神社であることに一つの解答が得られます。

それは、
かつての守屋の地で疫病が流行ったということです。

疫病が流行ったからこそ、八坂神社と素戔嗚尊(=牛頭天皇)を守屋の地に勧請したのではないでしょうか。

取手総鎮守が八坂神社であることからも、

当時の守屋や取手の地で疫病が流行ったことが推測されます。

現代の守屋や取手といった土地に勧請された八坂神社と牛頭天皇。
かつてこれらの土地に、疫病が流行ったことが十分に考えられます。

それではいったい、この疫病は誰によってもたらされたのでしょうか?

疫病は、外部からもたらされることが多いように思います。
かつての守屋や取手の地に、外部からの接触が始まった時期があったことが考えられます。

といっても、
現時点ではどのように外部から接触があったのかは不明です。
今後じっくりと考えていきたいと思います。

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