成田にある埴山姫命(はにやまひめのみこと)を祀る埴生神社に参拝

成田にある埴山姫命(はにやまひめのみこと)を祀る埴生神社に参拝

御祭神
埴山姫命(はにやまひめのみこと)

成田山新勝寺に参拝させて頂いた後、近くに神社はないかと探していると、こちらの埴生神社を発見しました。
埴生神社は、はぶ神社とお読みするようです。

こちらの埴生神社ですが、やはり実際に参拝させて頂くと感じるものがあります。
また、由緒書きから閃きを得ることもできました。

やはり実際に神社を参拝するのはいいことです。




成田にある埴生神社へのアクセス

JR成田駅から徒歩20分ほど
成田山新勝寺からだと徒歩15分ほど

歩道がない道を歩くので車が近くを通って危ないぞ!

いざ、埴山姫命(はにやまひめのみこと)を祀る埴生神社に参拝

こちらが鳥居です。

こちらの鳥居ですが、かなり道路のぎりぎりに面しています。
参拝の際はお気をつけて。

鳥居をくぐると由緒書きと手水舎があります。

竹の柄杓がおしゃれすぎます。

こちらが境内の様子です。
きれいに整えられた境内です。

こちらが本殿(拝殿)です。

本殿(拝殿)も美しい。

本殿(拝殿)の右手には摂末社があります。
摂末社のお名前は不明です。

本殿(拝殿)の左手には美しい庭園のようなものが広がっています。

庭園側から、少し本殿を撮らせて頂きました。
左に見える巨木も美しい。

庭園を奥に進むことができます。

その先にはお地蔵さまと、

浅間神社があります。
御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と思われます。

木製の簡素な鳥居です。
しかしとても美しい鳥居です。
さらに細身の木々に囲まれた社がまた美しい。
木花咲耶姫命を祀るに相応しい空間です。

埴生神社の境内は広くはないのですが、たいへん美しく心癒されます。

埴生神社は埴生郡三之宮

こちらの埴生神社は、かつてあって埴生郡の三之宮だそうです。

それでは一之宮と二之宮はどの神社なのか?

埴生郡一之宮は、こちらの矢口一之宮神社です。
なぜか近くの駒形神社のホームページに情報が載っています。

埴生郡二之宮は、こちらの二之宮神社です。
近くには土師神社があるようです。

こちらが一之宮と二之宮と三之宮(埴生神社)との位置関係です。
ほぼ縦に並んでいます。

埴生神社の御祭神のご紹介

御祭神
埴山姫命(はにやまひめのみこと)

埴山姫命をご紹介させて頂くには、埴生神社の御由緒を見ていくとわかりやすいかと。

埴山姫命(はにやまひめのみこと)を祀る埴生神社の御由緒

創建の年代は不詳ですが、以前この地方は埴生郡(はぶごおり)と言われており、今から約1500年前にこの地方に集落を構え、土師器(はじき)を作って生活を営んでいた土師部(はじべ)一族が自分達の祖神、氏神と「埴山姫之命」を祀り古代祭祀を執り行ったのがはじまりとされています。神社の建っている場所も成田の町の中では自然的に一番高い所に位置し、古墳の跡に社殿が建立されております。

当神社は通称三ノ宮といわれ、その昔、物資が利根川流域より運び込まれ、栄町矢口の一ノ宮、成田市松崎の二ノ宮、そして終点の三ノ宮と順になったとされています。その名残か現在当神社の向きは真西にむいており、一ノ宮・二ノ宮の方を向いております。

歴史的に年代が出てくるのは、まず仁安3年(西暦1168年)に成田五郎頼重という埴生郡を領していた武士が鉱物を奉納したと言うことが書かれてあり、成田という文字が出てくる最初と言われております。
次に寛元2年(西暦1244年)6月、同じくこの地方を領していた埴生次郎平時常が神輿を寄進しており、この頃より神輿渡御が始まり、7月17日の例祭の神輿渡御は750年以上の歴史を誇っております。
埴生神社ホームページより引用)

また、境内にある由緒書きには興味深いことが記されています。

抜粋しますと、

埴山姫命(はにやまひめのみこと)と火之迦具土命(ひのがぐづちのみこと)が結ばれ、稚産霊命(わかむすびのみこと・わくむすびのみこと=五穀の神)をお産みになったと記されており、

古代に焼畑農耕により(土=埴山姫命と火=火之迦具土命から)五穀を得ていたことを由来するものであります。

とあります。
また、

神社の創建年代は不祥ですが、1500年ほど前、文化を持った大和朝廷系の土師部(はじべ)がこの成田の地にて焼畑農耕により食物を育て、集落を構え、その豊潤は埴(はに=古代には土をハニといった)を用いて土師器(はじき)を作って生活し、一族の祖神と崇めて埴山姫命奉り古代祭祀を執り行ったのがはじまりとされています。

なのだそうです。

ちなみに、稚産霊命(わかむすびのみこと・わくむすびのみこと=五穀の神)は豊受姫神(とようけひめのかみ)のお母さんなのだとか。
豊受姫神といえば伊勢の神宮の外宮に祀られている神様であり、食物の神様とされています。

埴生神社の御由緒から考察する

埴生神社の御由緒はたいへん興味深いです。
気になる点がいくつもあります。
一つずつ追いかけてみたいと思います。

①埴生神社が真西を向いているのは、一ノ宮・二ノ宮の方を向いているから。

上で引用させて頂いているように、埴生神社のホームページにこのような文言があります。
私も埴生神社の境内で方位を計測したところ、確かに埴生神社の本殿はほぼ真西を向いています。
本殿が真西を向いていることに、何かしらの理由があると思われます。

が、
埴生神社から見て一之宮と二之宮は西側にはないのです。

むしろ北側(北北西ぐらい?)にあります。
それなのになぜ、一之宮と二之宮を向いているという表現になったのでしょうか?
以前は一之宮と二之宮が埴生神社の西側にあったのでしょうか?
(神社の場所は移ることがあるので)

ちなみに、
埴生神社の本殿裏手にある浅間神社は、ほぼ真東を向いています。
浅間神社は東面していることが多いように思いますので、真東を向いていることはおかしなことではありません。

しかし気になるのが、浅間神社が埴生神社の本殿と背を合わせるように建っている、ということです。
本殿の裏手に摂末社がある場合、多くは本殿と同じ方向を向いているか、本殿から見て右か左を向いています。
本殿に背を向けている摂末社を私は見たことがありません。

こちらの浅間神社が合祀されたものだとしても、このような配置にする理由があったのでしょうか・・・?

② 御祭神が焼畑農耕の伝承を示している

神社の御祭神が焼畑農耕を伝えている、というのは初めて目にしました。
しかし、なるほど、と思わされるものでもあります。

確かに焼畑農耕は活気的だったと思われます。
というよりも、火を使った文明というのが画期的だったのだと考えられます。
それというのも、火を照明や暖を取るといった方法以外で使い始めたのは、日本ではわりと新しいのではないかと考えています。

氷川三社のご紹介の際にも触れたのですが、少なくとも現在の関東あたりは1万年ほど前までは氷河期が残っていたとされています。
その氷河期の終わりを伝承で示したのが、氷川三社の一つ、中山神社(中氷川神社)の由緒書きなのではないかと私は想像しています。
(ちょっと想像が飛躍しがちですが)

また、土師部の人々は土師器を作ったともあります。
土師器も画期的な文明であり、火を存分に使えるからこそ作ることができたのだと思われます。

③土師氏は埴山姫命を祖神と崇め、祭祀を執り行った

祭祀を執り行う、というのも画期的な文明だと思われます。
集団生活があれば、大なり小なり祭祀的なことは行われていたことでしょう。

しかし、
祭祀を執り行ったということは、段取りや形式が明確に決められた祭祀なのだと想像できます。
人と神が近しい時代には、祭祀はとんでもなく重要なことだったようです。
ゆえに、祭祀を執り行うことができる人物は重宝されたのだとか。

そしてその祭祀を、土師部の人々が関東に持ちこんだとも受け取れます。
それは未開の地とされていた関東の開拓を示すものであり、同時に朝廷による支配を示しているようにも見えます。

④土師部とは?土師氏と違うのか?

土師部と土師氏。
違いがよくわかりません。
どちらも土師=埴(ハニ)=土を扱うことに長けた人々のように思われます。
祭祀に関わる埴輪を作ったことも共通していそうですし。

土師氏といえば、関東最古を謳う鷲宮神社と関係が深いとされています。
土師の宮(はじのみや)が転じて、鷲宮(わしのみや)になったとする説もあるようですから。

さて、
由緒書きによると土師部は、文化を持った大和朝廷の土師部、とあります。

一方、
鷲宮神社が出雲系の人々の崇める神である大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)や天穂日命(あめのほひのみこと)を祀ることから、鷲宮神社に関係の深い土師氏は出雲系の民族と考えられます。

土師部は朝廷系、土師氏は出雲系、と考えてよいのでしょうか?

ちなみに、土師氏も土師部も外から来た人々と考えられます。
(朝廷にいた専門職の人々は渡来人が多かったらしい。そもそも朝廷の人々も元を辿れば外から来たのではという話はまたいずれ)

高麗神社のご紹介の際にも述べましたが、朝鮮半島で大規模な争いが勃発した時期に、多くの渡来人(主に高句麗)が日本にやってきたのだそうです。
そして外からやって来た人々に、居場所はあまりなかったのかもしれません。

土師部も土師氏も、自ら新天地を望んで旅立ったのか、それとも未開の地に追いやられたのか、現在の千葉や埼玉にやってきたのかもしれません。
そして文明があまりなかった土地で、文明をもたらしたのかもしれません。

⑤埴山姫命も浅間神社の木花咲耶姫命も女神

青春18きっぷでめぐる千葉の姫神様のご紹介の際にも述べたのですが、千葉県には女神を祀る神社が多いように思います。

それは縄文時代の千葉県が、女神信仰があったからでは?と私は考えています。
そして女神信仰があったからこそ、上総一ノ宮玉前神社の御祭神が玉依姫命(たまよりひめのみこと)なのではないかという考察を綴りました。
興味のある方はこちらをご覧ください

ゆえに、
こちらの埴生神社の御祭神も女神である埴山姫命なのではないでしょうか?
土着の人々と溶け込むために、土師部の人々は女神を崇め奉ったのかもしれません。

なお、
今回の考察もこれといった根拠はありません。
ただの想像です。
鵜呑みにしてはいけません。

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