東京最古の寺社? 浅草寺の奥にある浅草神社に参拝

東京最古の寺社? 浅草寺の奥にある浅草神社に参拝

御祭神
土師真仲知命(はじのまつちのみこと)
桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)
桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)

雷井戸の伝説のある三島神社酉の市起源発祥の地とされる鷲神社、吉原を偲ぶことのできる吉原神社と続き、浅草神社にも参拝させて頂きました。

浅草といえば浅草寺がたいへん有名です。
浅草寺は巨大で、荘厳で、境内はいつも人で溢れかえっています。
仲見世通りや雷門も有名な観光スポットです。

しかし、
意外と浅草神社には人が少なかったりします。
私が参拝した日も浅草寺は大混雑していたのですが、浅草神社はわりと閑散としていました。

今回は浅草寺の陰に隠れがちな浅草神社のご紹介です。
浅草神社。
興味を惹かれる神社です。

こちらの浅草神社ですが、googleマップで検索すると『東京最古の寺社』と表示されます。
果たして浅草神社は本当に東京最古の寺社なのか?

また、
それ以外にも土師氏(はじし・はじうじ)に関わりのある神社でもあります。
土師氏の先祖といえば相撲の祖とされる野見宿禰(のみのすくね)であり、野見宿禰の先祖はあの天穂日命(あめのほひのみこと)とされています。

浅草寺ばかりに目がいきがちですが、その脇に鎮座されている浅草神社もまた魅力のある神社です。




浅草神社へのアクセス

〒111-0032 東京都台東区浅草2丁目3−1
各線浅草駅から徒歩5分ほど

平日でも境内は混雑しているぞ!
また浅草寺の西側には浅草花やしきなどがあり活気にあふれていて、歩くだけでも楽しいぞ!

いざ、浅草寺の脇にある浅草神社に参拝

こちらが浅草寺の境内図です。

浅草寺の境内には多くの寺社仏閣があります。
すべてをご紹介すると気が遠くなるので、今回は主に浅草神社のご紹介です。

せっかくですので浅草寺も少しご紹介。
こちらが宝蔵門。
巨大です。

雷門は人が多すぎて写真を撮ることができませんでした・・・。

こちらが浅草寺の本堂です。

とてつもなく巨大です・・・。
長野の善光寺の本堂と同じぐらい大きいように思います。

善光寺に興味のある方はこちらをご覧ください。

こちらの荘厳な浅草寺本堂の右隣に鎮座されているのが、東京最古の寺社?である浅草神社です。

こちらが浅草神社の鳥居です。
奥に見えるのは浅草寺の本堂です。

鳥居をくぐると境内が広がっています。

きれいな境内です。

こちらが本殿(拝殿)です。

巨大で荘厳な浅草寺に比べると、こじんまりとした社殿です。
しかし質素ながら美しい浅草神社の社殿もいいものです。

こちらが由緒書きです。

さて、
こちらの浅草神社ですが、心温まる狛犬がいらっしゃいます。
鳥居の脇にいらっしゃるその狛犬が・・・

夫婦狛犬です。

寄り添う狛犬。
かわいらしい。
こちらの狛犬も正面を向いた狛犬・・・といえるかもしれません。

浅草神社の御由緒

少し長いですが、浅草神社ホームページより引用させて頂きます。

推古天皇の御代三十六年(六二八)三月十八日の春麗らかなる朝、漁師の檜前浜成・竹成の兄弟が、浅草浦(現隅田川)で漁労に精を出していたところ、その日に限り一匹の魚も獲れず、投網に掛かるのはただ人形の尊像だけでした。しかしそれが観音像とは知らずに、幾度か海中に投げ入れ何度場所を変えても同じ事の繰り返しです。流石に兄弟は不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し槐の木の切株に安置しました。そして当時郷土の文化人であった土師真中知にその日の出来事を語り一見を請うたところ、同氏は「これぞ聖観世音菩薩の仏像にして現世御利益仏たり、自らも帰依の念深き仏体である」と告げられました。

兄弟はその功徳を知りなんとなく信心をもようされ、深く観音を念じ名号を唱え、「吾ら漁師なれば漁労無くしてはその日の生活も困る者故、明日は宜しく大量得さしめ給へ」と厚く祈念して、翌十九日に再び浦々に網を打ったところ、船中は願いの如く溢れんばかりの魚に満ち足りました。

土師氏は間もなく剃髪して沙門(僧侶)となり自宅を新たに寺と構え、先の観音像を奉安し供養護持の傍らに郷民の教化に生涯を捧げられました。

これが『浅草寺縁起』に見られる観音御示現に伴う浅草寺の起源であり、その御利益を求めて時の将軍や武家をはじめ庶民に至るまで多くの参詣者を得て、寒村であった郷土は興隆・発展の一途を辿ります。

後世となり土師氏の子孫が聖観世音菩薩の夢告を蒙り、「汝等の親は我を海中より薫護せり。故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の功績は称すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守し、名付けて三社権現と称し齋祀らば、その子孫・土地共に永劫に繁栄せしむべし。」との託宣があり、前述三氏の末孫が崇祖の余り三人を郷土神として祀る三社権現社が茲に創建されました。

正確な創建年代は不明ですが、その起源と経緯や各時代の縁起等に記される伝承を鑑みて、仏教普及の一つの方便である「仏が本であり、神は仏が権りに姿を現じた」とする権現思想が流行り始めた平安末期から鎌倉初期以降と推察されます。

奇しくも明治政府より発せられた神仏分離令により、明治元年に社名を三社明神社と改めて、同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められました。今でも氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。
浅草神社ホームページより引用)

浅草神社の御祭神のご紹介

御祭神
土師真仲知命(はじのまつちのみこと)
桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)
桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)

浅草神社の御祭神ですが、神代の神様ではなく、実在したであろう人物を祀っています。

由緒書きによると、
桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)と桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)は兄弟であり、漁師であったとのことです。

土師真仲知命(はじのまつちのみこと)は当時の浅草の土地の文化人であったとのことです。

このように、
浅草神社の御祭神は実在したであろう人物です。
神社は神話に出てくる神様や歴代天皇を祀る以外に、実在したであろう人物を祀っていることもあります。
実在したであろう人物を祀る神社としては、菅原道真公を祀る天満宮が有名です。

さて、
それぞれの御祭神についてですが・・・

桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)と桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)

現時点ではほとんど考察の余地のない神様です。
それもすべて私の知識不足によるのですが・・・。

一点気になることがあるとすれば、お名前の桧前(ひのくま)という音が気になります。

ひのくま

という音から、和歌山にある紀伊國一之宮、日前神宮(ひのくまじんぐう)・国懸神宮(くにかかすじんぐう)が連想されます。
実は私は日前神宮・国懸神宮に一度参拝させて頂いたことがあります。
もちろん写真はありませんが。

さて、
漢字こそ違えど、桧前と日前はともに『ひのくま」とお読みします。
ひのくまという音が同じなんですね。
ここには何かつながりがあるのでしょうか?

日前神宮の主祭神は日前大神(ひのくまのおおかみ)です。

日前大神とは、

天照大神が天岩戸にかくれた時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が最初に作った鏡の神格化されたもの。和歌山市秋月の日前国懸神宮にまつられる。
コトバンクより引用)

といった神様のようです。

ここからは桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)と桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)との関係性は思いつきません・・・。

やはり私の考え違いでしょうか。

土師真仲知命(はじのまつちのみこと)

こちらの土師真仲知命(はじのまつちのみこと)については興味深い記事が浅草神社のホームページにありましたので引用させて頂きます。

宮司さんが土師という姓に改められたようです。

 さて、「土師」という姓の由来ですが、その先祖は「野見宿禰(のみのすくね)であり、「當麻蹶速(たいまのけはや)」との相撲での勝負に勝ち、現在でも相撲の神様として祀られています。その野見宿禰は、時の皇后薨去(こうきょ)の際にそれまで慣習となっていた殉死を取り止め、代わりに「埴輪」を作り供えることに改めました。その功績により「土師」姓を与えられ、皇室の葬喪儀礼に携わる役に就きます。
そしてこの埴輪による儀礼を広めるべく、その子孫が日本各地に散らばり、その内の一人が浅草の地に住み着いたと考えられています。浅草には良質な粘土が採れた事から 今戸焼きが発祥していますし、皇室の葬儀を仕切った一族だからこそ、仏教伝来わずか百年足らずの当時は僻地であった浅草においても、聖観世音菩薩の尊像を伺い知ることができたのでしょう。
野見宿禰の子孫には菅原道真公も輩出され、太宰府天満宮には野見宿禰の碑が建立されており、また大阪府藤井寺市の道明寺天満宮境内には土師氏の祖先を氏神とする「土師社(はじしゃ)」が祀られています。
「三社権現社」の社僧から始まり「三社明神社」の祀官を経た「浅草神社」の宮司の姓は「土師」が本来であり、これ程の我が国の歴史と文化を背負っていることは、我々浅草の氏子にとっても誇りです。そして連綿と続く「土師」の系統を以て、観音様と三社様の御縁や御由緒、更には浅草草創の歴史的経緯を、氏子はじめ浅草内外に向けて発信し、地域社会の更なる発展・活性化に繋げていくべきであります。
「土師」から「矢野」の姓を継がれている現宮司も、我々総代はじめ氏子代表者の要望を受け、「土師」姓への改姓を決意されました。
ついては、ご本人のご決意と氏子の総意を以て、今後は「浅草神社 宮司 土師(はじ)泰良(やすら)」として神明奉仕に更にご尽力頂きたく存じます。
浅草神社ホームページより引用)

土師氏(はじし・はじうじ)のお名前は、神社を参拝していくといずれ目にするお名前です。
関東最古の神社とされる鷲宮神社もまた、土師氏に関わりのある神社とされています。

鷲宮神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

土師氏については成田山の近くにある埴生神社でも少しご紹介させて頂いているので、興味のある方はご覧ください。

埴生神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

さて、
浅草神社の御祭神である土師真仲知命(はじのまつちのみこと)も、その土師氏の血を引く人物のようです。

その土師氏ですが、野見宿禰(のみのすくね)の子孫とされています。

野見宿禰といえば何かと話題になる相撲の祖とされる人物でもあります。
當麻蹶速(たいまのけはや)との相撲対決を制した逸話は有名です。
もっとも野見宿禰は當麻蹶速の腰を踏み折ったとのことですから、現在の相撲とはかけ離れているようにも思えます。

さて、
當麻蹶速の腰を踏み折ったということから、野見宿禰が武力に秀でていたことが考えられます。
しかしその野見宿禰が、なぜか天皇が亡くなった際の殉死を辞めさせ、代わりに埴輪を作るということを提案します。

この逸話のおかげで、私のなかで野見宿禰という存在の形が定まりません!

だって野見宿禰は當麻蹶速の腰を踏み折るほどの武に秀でた存在なのですよ?
その野見宿禰がちまちまと(といったら失礼ですが)埴輪を作るでしょうか?

まあ、野見宿禰が埴輪を作らないとは言い切れないんですけどね。
力持ちが土をこねこねするのが好き、ということもありうることですから。

そしてまた、野見宿禰が天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫だと知ってからは、野見宿禰が土をこねこねして埴輪を作ることもありうるのでは、と思うようになりました。

天穂日命。

関東最古とされる鷲宮神社の御祭神です。
そして天津神とも国津神とも考えられる神様。

なにより、実質的に『国譲り』を成功させたと考えられる神様でもあります。

『国譲り』神話のなかでは天津神とされる天穂日命ですが、
実際は出雲の神様(=国津神)であったとされています。

『国譲り』を成功させたであろう天穂日命。
そしてその子孫である野見宿禰。
そして野見宿禰の子孫である土師氏。
そのうちの一人と考えらえれる浅草神社に祀られている土師真仲知命(はじのまつちのみこと)。

そしてあの天才・菅原道真公も天穂日命の系譜を継ぐ人物だそうです。

天穂日命。
古事記や日本書紀で大きく取り上げられることはありませんが、現代の日本の在りように大きな影響を与えた神様なのかもしれません。
(個人の見解です)

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