吉原遊郭ゆかりの神社 台東区にある吉原神社に参拝 

吉原遊郭ゆかりの神社 台東区にある吉原神社に参拝

御祭神
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
→弁天様

酉の市起源発祥の地とされる鷲神社(おおとりじんじゃ)に参拝させて頂いた後、近くにある吉原神社にも参拝させて頂きました。

吉原神社。
そのお名前が示しように、『吉原』に縁のある神社です。

『吉原』といえば遊郭として有名です。

しかし私は、その有名な吉原がどこにあるのかよくわかっていませんでした。
東京のどこかにあるはずなのですが・・・。

今回は鷲神社に参拝させて頂くことが目的だったのですが、
思いがけず吉原にゆかりのある吉原神社に参拝させて頂くこともできました。

吉原。
一日に千両ものお金が動いた街。
華美で煌びやかで日常とかけ離れた世界。
しかしながら、そこで働く遊女たちにとっては、檻だったのかもしれません。

今回吉原神社に参拝させて頂いたことで、
吉原で信仰を集めた神様の姿が少し見えた気がします。




台東区にある吉原神社へのアクセス

〒111-0031 東京都台東区千束3丁目20−2

電車でのアクセスは不便
散歩がてらのんびり歩いていくのがおすすめ。

吉原神社と吉原神社本宮の位置関係

吉原神社には本宮が別にあります。
吉原神社から本宮までは歩いて1分ほど。

吉原神社と鷲神社の位置関係

吉原神社と鷲神社はすぐそこ。
歩いて3分ほど。
吉原の近くにある鷲神社・・・。
当時はどのような賑わいを見せていたのでしょうか?

いざ、吉原遊郭にゆかりのある吉原神社に参拝

酉の市起源発祥の地、鷲神社の裏手を少し歩くと、吉原神社はあります。

こちらが鳥居です。

鳥居の正面は道路です(歩道がありますけど)。

こちらがその道路の様子。
鳥居を背に左手の道路です。

この道が、かつては吉原の道だったのだと思うと不思議な感じがします。

さて、
こちらが吉原神社の鳥居と狛犬です。

狛犬が正面を向いているといえなくもありません。
体が正面を向いていて、首がやや鳥居の方を向いています。

鳥居をくぐった右手には吉原今昔図なる、かつての吉原の姿が見える地図があります。
本当にこちらの吉原神社の近くに吉原があったんですね・・・。

こちらが吉原神社の本殿(拝殿)です。

本殿(拝殿)の右手にはベンチがあります。
散策で疲れのたまった足を休めるにはありがたいです。

けど、
後ろにちょっと怖い石像が二体いるんですけどね。
これらの石像はいったい何を表しているのでしょうか?

奥に見えるのがお穴様です。

吉原神社のホームページによると、

地中の神様で神社の土地をお守りしています。
心を込めてお参りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしております。
吉原神社ホームページより引用)

とのことです。
神社の土地を守る神様が境内に祀られているのは珍しいように思います。
お穴様とはどのような神様なのでしょうか。

吉原神社の本宮に参拝

吉原神社には本宮があります。
本宮は少し南にくだったところに鎮座されています。

こちらが本宮の入り口です。

四角い境内に多くの像が祀られています。

境内にあるひときわ大きな像がこちらです。

吉原観音とあります。
吉原神社のホームページには

関東大震災の殉難者を慰霊する観音像

とあります。
しかしかちらの観音像ですが、よくよく見るとあることに気がつきます。

それは、
観音様の身に着けている服装が少し不似合いなのです。

こちらの観音様の表情も相まって、
まるで聖母マリアのように見えるのは私だけでしょうか・・・。

もしかしたら吉原の遊女たちは、聖母マリアに祈らずにはいられなかったのかもしれません。

さて、
こちらの観音像のほぼ向かいに吉原神社の本宮があります。

こちらが吉原神社の本宮の鳥居です。

本宮の正面はスペースがなく社を写真に収められませんので、横からの様子です。

神社とは思えぬ華美な装飾です。
吉原神社のホームページによると、

平成24年には有志の方々によって改修工事が行われ、壁一面には東京芸術大学の学生による壁画が描かれました。

とのこと。
神社とは厳かなものである、といったイメージがありますが、神社によってさまざまな色があるものです。
吉原神社にはこのような華美な社が合っているようにも思います。

ちなみにこちらが吉原神社の本宮の正面の様子。

正面も神社とは思えない華美な装飾がされています。

まさに吉原の神社、といった様子です。

吉原神社の御由緒のご紹介

当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
この「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。
その後明治5年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが、関東大震災にて焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。その後昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しますが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。
吉原神社ホームページより引用)

吉原神社の御由緒から、かつての吉原の地に葦(よし=あし)が生い茂っていたことがわかります。
『葦』という単語から芦原中つ国を連想してしまいます。
江戸時代になっても、葦の生い茂る土地がまだあったようです。

また、
新吉原には郭の守護神として五つの稲荷神社があったそうです。
稲荷神社の御祭神といえば倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。お稲荷さんとして親しまれている神様であり、稲荷という言葉が『稲が成る』から来ているとのことで、豊穣の神様としても崇められています。

さて、
その豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を吉原という小さな空間に五社も祀った。
由緒書きによると郭の守護神として祀ったとありますが、これはどちらかというと、外から守っていたというよりは、中を監視していたと見えなくもありません。

それでは監視の対象はなにか?
それはもちろん、遊女たちでしょうか。
吉原において黄金色の稲を生み出す遊女たちを、豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)によって監視していた・・・。

と考えるのは、
私の思考がちょっと極端でしょうか。

吉原神社の御祭神のご紹介

御祭神
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は豊穣の神様。
お稲荷さまとして多くの人々に親しまれている神様。

須佐之男命(すさのおのみこと)の御子神ともされる神様。

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)というお名前からして『稲』に関係のある神様とされていますが、個人的には謎の多い神様だったりします。

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の考察はまたいずれ。

御祭神
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

一般的に市杵島姫命は宗像三女神の人柱の神様とされています。
水(海)に関係のある女神ということからか、神仏習合では弁財天(弁天様)と同一視されることの多い神様でもあります。

しかし、
市杵島姫命という神様もまた、いろいろな側面を持つ神様です。

また機会があれば市杵島姫命という神様についても考察していきたいと思います。

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