山梨の神社② 連歌発祥の地の酒折宮に参拝

山梨の神社② 連歌発祥の地の酒折宮に参拝

御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)

甲斐國一宮浅間神社、笛吹市の甲斐奈神社に続いて、今回は酒折宮をご紹介させて頂きます。

こちらの酒折宮ですが、『さかおりのみや』とお読みします。
『宮』とあることから天津神(≒朝廷側)と関わりが深いことが読み取れます。

そして実際に参拝させて頂いた感想として、

「神社というよりは『宮』だなぁ」

といったものがあります。
小学生の遠足の感想のようで恐縮ですが、感じたままに記述しておきます。

予備知識があったからかもしれませんが、こちらの酒折宮は神社とは違った雰囲気があるように感じました。
神々を祀るというよりは、日本武尊の宿泊地、といった印象を受けました。

今回は
日本武尊が東征の帰りに立ち寄った地であり、連歌(れんが)発祥の地とされる、酒折宮のご紹介です。




連歌発祥の地の酒折宮へのアクセス

JR酒折駅から徒歩4分ほど

地図の到着点だと脇の鳥居に着くぞ!
正面の鳥居は線路の向かいにある!

いざ、連歌発祥の地の酒折宮に参拝

私は上野地図のルートで向かったのですが、せっかくですので正面の鳥居からご紹介させてい頂きます。

境内図はこちらです。

酒折宮の公式ホームページから引用させて頂きました。
境内図は酒折在住の小学生が描いたものだそうです。
今まで見た境内図のなかでいちばんステキな境内図です。

こちらが鳥居です。

鳥居の正面はJRの線路があります。
つまり、JRの車窓から酒折宮を望むことができるということです。
電車マニアであり、かつ神社マニアの方にはたまらないかと思われます。

さて、
こちらの鳥居ですが大きなものではありません。
しかしこの鳥居のひっそりとした佇まいが、酒折宮の雰囲気によく合っているように思います。

鳥居をくぐると参道が伸びています。

整然とした、きれいな境内です。

連歌発祥の地だからか(?)、参道の左手には多くの文字が記されています。

参道のさらに左手には社が並んでいて、

その裏手には小高い丘が広がっています。

不思議な光景です。
日本人の心象風景とでもいうのでしょうか。
心が安らぎます。
写真の奥に見えるのが本殿(拝殿)の屋根です。

参道に戻り、奥に本殿(拝殿)があります。

本殿(配電)は階段を上った先、一段高いところにあります。

簡素な社なのですが、たいへん美しく見えます。
華美な社や、荘厳な社もすばらしいですが、酒折宮のような簡素で美しい社もまたすばらしいです。

酒折宮の社は本殿(拝殿)といくつかの祠だけのようです。
社の少ない境内もまた、こちらの酒折宮が日本武尊の立ち寄られた施設、といった雰囲気を感じられます。

ちなみに、
参道を右手に進むと鳥居があります。

手前の丸石には道祖神とあります。
またこちらの鳥居の扁額には『八幡宮』とあります。
かつては境内に八幡大神も祀っていたのでしょうか。

鳥居の脇には連歌発祥の地の由来を記した立て札もあります。
日本武尊の時代は歌を詠めるということが教養の現れ、ひいては会話をする最低限の条件だったのかもしれません。

連歌発祥の地の酒折宮の御由緒

少し長いですが、酒折宮のホームページに興味深い記述があったので引用させて頂きます。

酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が
「かかなべて夜には九夜日には十日を」
と片歌で答えたことが記載されています。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。
当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに
「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」
と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)*」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。
日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられています。

* ここにいう「火打嚢」は、日本武尊が東夷征伐に向かわれる前に参った伊勢神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます。(古事記による)
酒折宮ホームページより引用)

ご祭神である日本武尊が酒折宮に御鎮座したのは、今から1900年前のことです。
塩海足尼が社殿を建て鎮祭した当初の酒折宮は、現社地の北側の、月見山の中腹にありました。
月見山は三角錐のかたちをした「神奈備山(かんなびやま)」と言われる山で、当時は山そのものがご神体と見なされ、人々の信仰を集めていたとも考えられます。
酒折宮ホームページより引用)

この地でも山そのものをご神体として崇めていたようです。

また、酒折の地は甲斐の国の治所の置かれたところでした。
甲斐の国から他の国に通ずる九つの主要道路は、すべてここ酒折を起点としていたようです。いつのころか社殿は古天神より現在の場所へ移されました。
酒折宮ホームページより引用)

酒折の地は当時の主要道路であったそうです。
ゆえに日本武尊のも東征の帰りに酒折の地で休息を取られたのでしょう。

さて、
酒折という地名ですが、『さかおり』と読むことから、『坂折』であるとも考えられます。
『坂』が折れ重なるように連なった地。
もしくは『坂』が転じて『道』が折れ重なるように連なった地。

と考えられなくもありません。
いずれにしても、酒折の地は昔から、交通の要所であったことが推測されます。

連歌発祥の地の酒折宮の御祭神のご紹介

御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)

日本武尊はたいへん有名かと。

(72年頃〜113年頃)
古代日本の国土を平定した日本神話の英雄的存在。第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父とされています。
酒折宮ホームページより引用)

とあるように、英雄的な要素のある神様(偉人)です。

しかし、
日本武尊の生涯は波乱の連続だったともされています。
(英雄譚を創るうえで波乱のある展開が必要だったのかもしれませんが)

日本武尊は東征の前に、現在の九州や出雲の辺りの征伐にも行っています。
そして帰京した後に東征を命じられ、伊勢の神宮に立ち寄り、東征を行い、そして東征の帰路に酒折宮に立ち寄ったということになるはずです。

当サイトでも日本武尊の東征について綴った記事がありますので、興味のある方はご覧ください。

日本武尊と弟橘姫命を祀る妻戀神社のご紹介はこちらをご覧ください。

弟橘姫命を祀る橘樹神社のご紹介はこちらをご覧ください。

日本武尊の東征のルートに関係のある蘇我比咩神社のご紹介はこちらをご覧ください。

さて、
今回は日本武尊が東征の帰りに立ち寄られたという酒折宮を参拝させて頂きました。
今後も引き続き日本武尊の東征のルートを辿っていければと思います。
そうすることで、日本武尊と当時の日本の姿が少し見えてくるかもしれません。

いずれ当サイトで詳しくご紹介させて頂くこともあるかと思いますので、過度な期待をせずにお待ちいただければと思います。

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