池袋の寺社 水天宮と四面塔尊に参拝

池袋の寺社 水天宮と四面塔尊に参拝

J
池袋にある水天宮と四面塔尊。
JRで埼玉から東京方面に行かれたことがある方は、一度は目にしたことがあるのではないかと思われます。
そう、あのJRの車窓から見える社です。

私も何度も目にしたことはあったのですが、参拝させて頂いたのは今回が初めてだったりします。
池袋には数えきれないほど来ているのに、一度も参拝したことがなかったんですね・・・。

というわけで、
今回はずっと気になっていた池袋の寺社に参拝させて頂きました。




池袋の水天宮

水天宮御祭神
天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
安徳天皇 (あんとくてんのう)
建礼門院(けんれいもんいん)
二位の尼(にいのあま)

池袋の水天宮へのアクセス

JR池袋駅から徒歩5分ちょっと

JRの線路沿いにあります。

いざ、池袋の水天宮に参拝

こちらが池袋の水天宮です。

こじんまりとしています。
しかし美しくまとまっているようにも感じます。
池袋という大都会(都内では田舎?)という立地にも関わらず、しっかりと社を含めた境内がきれいに保たれているのはすばらしいです。

こちらが由緒書き。

神社人さんのサイトが分かりやすかったので引用させて頂きます。

元々、水天宮は、寿永4年(1185)、壇ノ浦の合戦で破れた平家の女官、按察使(あぜち)の局伊勢が、源氏の目を逃れ、九州の久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇(81代)、建礼門院(高倉天皇の中宮/安徳天皇の母君)、二位ノ尼(平清盛の妻/安徳天皇の祖母/建礼門院の母)の御霊をささやかな祠(ほこら)をたててお祀りしたのが始まりとされる。さらに、天御中主大神(この国をつくったと伝えられる神)を祀り、やがて平家の三方とこの神の四柱を祀るこの祠を水天宮と称されるようになった。文政元年(1818)、藩主有馬頼徳の時代、参勤交代で江戸へ参上している間も郷里の天候に不安を抱いていたことから、江戸の藩邸内(港区赤羽)に分霊して、郷里の五穀豊穣を願いました。その後、明治維新を経て、水天宮様は、赤羽から青山へ、青山から現在の日本橋に鎮座されるようになる。そして、昭和3年(1928年)、池袋の有志の方々が、池袋の繁栄を願い、日本橋の水天宮のお札を頂き、お祀りをしたのが、池袋水天宮の始まりとされる。その後、幾度かの移転を繰り返し、終戦後、現在の公園内地に御社殿を造営された。
神社人さんより引用)

池袋の水天宮の御由緒と御祭神について

さて、
こちらの水天宮も『水』とお名前にあることから、水に関わりの深い神社であることが推察されます。

御由緒を見ても、なるほど、水と関りが深いのだなと思わされます。

御池袋の水天宮の御祭神は

天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
安徳天皇 (あんとくてんのう)
建礼門院(けんれいもんいん)
二位の尼(にいのあま)

です。

天御中主大神は神代の神様ですが、それ以外の御祭神は、ほぼ実在したとされる人物です。
池袋の水天宮のことを知るには、平氏のことを知らなくてはならないようです。
なぜなら安徳天皇 (あんとくてんのう)、建礼門院(けんれいもんいん)、二位の尼(にいのあま)は平氏に関わりのある人物だからです。

池袋の水天宮の御祭神と平氏の関係

池袋水天宮の由緒書きにはこうあります。

安徳天皇
第八十一代天皇。
第八十代高倉天皇の第一皇子。

建礼門院
第八十代高倉天皇の中宮(天皇の妻の呼称の一つだそうです)。
安徳天皇の母君。
(そして平清盛がお父さん)

二位の尼
平清盛の妻。
安徳天皇の祖母。
建礼門院の母。

まとめると、
平氏の一族のお祖母さん・お母さん・息子ということになります。
安徳天皇から見ると、

お祖父さん:平清盛
お祖母さん:二位の尼
お母さん:建礼門院(=平徳子
息子:安徳天皇(高倉天皇と建礼門院との子ども)

ということになります。
池袋の水天宮は平氏の一族が祀られているんですね。

そしてなぜ『水』天宮なのか?
それは、安徳天皇も建礼門院も二位の尼も入水をされたからでしょう。

安徳天皇はわずか七歳であったそうです。

安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊を祀るために祠が建てられたことが、池袋の水天宮の大元だそうです。

それから時代が下るにつれ、鎮座されていた場所や理由が変遷したいったようです。

池袋の四面塔尊

こちらの四面塔尊は、水天宮のやや手前、JR池袋駅寄りにあります。

池袋の四面塔尊へのアクセス

JR池袋駅から徒歩5分ほど

いざ、池袋の四面塔尊へ参拝

右側が四面塔尊。
左側が池袋四面塔稲荷大明神。

左側はお稲荷さんということですね。
お稲荷さん、つまり倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀っていると考えられます。

さて、
それでは左側の四面塔尊とはどのような社なのでしょうか?

四面塔尊の由来を抜粋しますと、

<四面塔尊の由来>
享保の頃(徳川幕府八代将軍吉宗の頃)
高田雑司ヶ谷と板橋を結ぶ街道と
礫川と東長崎を結ぶ街道の四ツ辻付近(現在の西武線池袋駅東口)は、
夕方になると追いはぎや辻斬りが出没し、夜はその難を逃れるため通行する人が途絶えました。
享保六年の夏、一晩で17名の辻斬り残骸があり、この不祥事を憂いて池袋村民有志64人が、
雑司ヶ谷鬼子母神威光山法明寺 第22世日祖上人に供養をお願いし、享保6年9月、法華経のお題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊冥福を供養しました。
正面にはお題目、
右側面には、北の方板ばしみち、
左側面には、南方高田雑司ヶ谷道が記され、道しるべとしても使われました。
霊験あらたかなこの塔は四面塔尊と称され、以来、法華経の功徳により災難は解消されました。

ということだそうです。

ネットで四面塔尊を調べて知ったのですが、どうやら心霊スポットとされているようです。
まあこれだけ辻斬りがあれば、心霊スポットとされるのも分からなくはないですけど・・・。

以前より気になっていた池袋の寺社に参拝させて頂いたことで、思わぬ歴史を知ることができました。

平氏にまつわる歴史。

辻斬りの横行した歴史。

普段そこにある寺社が、遠い過去を教えてくれたりするのです。

広告