我孫子市の神社④ 平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社に参拝

我孫子市の神社④ 平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社に参拝

御祭神
平将門(たいらのまさかど)

2018年の年末辺りから、平将門という武将に興味を持ち始めました。
それというのも、平将門を知れば現在の関東の成り立ちを知ることができるのでは?
と考えたからです。

ですので我孫子市の神社に参拝させて頂いた際も、それぞれの神社の境内に平将門の存在を探していました。
そしてgoogleマップ上で平将門神社を発見したことで、参拝させて頂くことにしました。

平将門。
小学校や中学校の教科書でもお名前は見たことがあります。
しかし私は、平将門のことをあまり詳しく知りません。

今回の参拝をきっかけに、少しでも平将門を知ることができればと思います。




平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社へのアクセス

JR成田線湖北駅から徒歩20分ほど

電車で行く場合は歩いていくしかありません。
ちょっと遠いぞ!

いざ、平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社に参拝

平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社の感想を率直に述べると、

こじんまりとしています。
社も平将門という偉人を祀るにしては小さいように思います。
それなのに格式の高さを感じるという矛盾が存在する神社です。

それはおそらく、
朝廷としては平将門を盛大に祀りたくない
土着の人々は平将門を大事に祀りたい
といった思いの表れなのかもしれません。

こちらが将門神社の鳥居です。

鳥居をくぐった先にあるこちらは、拝殿なのでしょうか?

素材のきれいさから、近年造営されたことが窺えます。
そこから現代でも崇敬が篤いということが想像できます。

こちらの拝殿?には、このような家紋があります。

家紋には詳しくないのですが、こちらの家紋は平氏の家紋のようです。
(平氏の一部の武将の家紋?)

蝶を模しているのでしょうか?
ちなみに平将門の家紋は九曜紋だそうです。

こちらの拝殿?の奥に本殿が見えます。

こちらが平将門を祀る本殿の社。
石造りの社です。

奥には小さな石造りの社も見えます。

平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社の御由緒

一部加筆・修正してあります。(太字とアンダーライン)

  旧日秀(ひびり)村の村社将門神社は字上宮前、手賀沼を眼下に望む丘陵の南端に鎮座している。

祭神は平将門。明治四十一年(1908)に字掘込(ほつこめ)にあった無格社水神社(祭神は水波賣命)を合祀して将門社から将門神社となった。

この日秀の地は平将門に関する伝承を今に伝える我孫子市内でも特記すべき所である。

神社の由来は、天慶三年(940)将門が戦没するや、その霊は遺臣等と対岸手賀沼村明神下より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登り朝日の昇天するを拝したということから、村人がその地に一字を奉祀したのが将門神社の起こりであるという。

日秀(ひびり)の地名についても、将門の霊位が日の出を拝したからとも、またその遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖(いんせい)したことから、日出(ひいで)村と呼ぶようになったとも伝えられているが、日出村の呼び方は元禄十五年(1702)の水神社の石祠(現在境内鳥居脇に遷されている)にも認められるが、寛文十二年(1672)の庚申塔には「日秀村」と刻まれている。江戸初期には両様に用いられていたことがわかる。

また将門は幼少のころをこの地で過ごしたとの伝承日秀では桔梗を植えても花が咲かないしまた植えない愛妾桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説にちなんだもの)。さらに胡瓜(きゅうり)は輪切りにしない(将門の紋所である九曜紋が胡瓜を輪切りにした状態に似ていることから)、成田不動尊へは参拝しない等、将門とのかかわりを色濃くのこしている地である。

最近になって、神社西方の日秀西遺跡が発掘調査され、古代郡衙(ぐんが)跡と考えられるに及び、この将門神社及び東方低地にある将門の井戸とのかかわり等、古代から中世への史実と伝承の谷間も鮮明されることであろう。

祭礼は正月六日のおびしゃと七月十四日の例祭を祇園(ぎおん)祭りと称し、初日の鎮守氏神における幟立から始まり三日間にも及び、また収穫を祝う秋祭りも行われていたが、現在は七月十四日の例祭のみとなっている。この日は「みやなぎ」と称し神社を清掃後、神主、氏子総代等の役員当番により神前にて玉串を上げ、当屋において直会の宴がある。その時当番の家の門口へ「奉納将門大明神」(天保六年正月奉納)の幟を立てるのでそれとわかる静かな祭りとなっている。

「我孫子の史跡を訪ねる」より引用
将門神社ホームページより引用)

ちなみにこちらが相馬郡衙正倉跡の図です。

湖北特別支援学校の線路沿いの通りに設置されています。

平将門を祀る日秀(ひびり)村の将門神社の御祭神のご紹介

御祭神
平将門(たいらのまさかど)

御祭神は言わずと知れた、平将門公です。

没年:天慶3.2.14(940.3.25)
生年:生年不詳
平安中期の武将。桓武平氏高望の孫で父は鎮守府将軍良将(一説に良持)。若いとき上京して一時期,摂関藤原忠平に仕えたこともあったが,志を得ず本拠地の下総国に戻って勢力を養い豊田,猿島,相馬の3郡(ともに茨城県)を支配した。承平5(935)年父の遺領の配分と女性問題をめぐって一族と争いを生じ,おじ国香やその姻戚の常陸(茨城県)の豪族源護 の子らを殺したことで,おじ良兼,良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになった。将門はこれを打ち負かしたが,護がこの事件を朝廷に訴え出たため召喚された。運よく恩赦に浴し許され帰国した。のちおじたちとの争いは激しさを加えたが,これを抑えこみ国司の抗争に介入した。天慶2(939)年武蔵国において権守の興世王,介(次官)の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが,経基によって朝廷に訴えられた。 その矢先,常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃,官物を奪って放火し,この段階で国家に対する反乱とみなされた。将門は興世王にのせられ下野(栃木県),上野(群馬県),武蔵,相模(神奈川県)の諸国を配下におき,八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称して坂東八カ国の独立を宣言し,下総国猿島郡石井に王城の建設を始めた。しかし翌年,貞盛や下野国の押領使藤原秀郷らに滅ぼされた。事件後ほどなくしてできた『将門記』の語るところである。この承平・天慶の乱が貴族に与えた衝撃は大きく,のちの争乱で「宛も承平・天慶の乱のごとし」と引きあいに出されることが多い。侠気に富む行動に対して悪逆無道の人物という評価のある半面,国家の苛政に勇敢に反抗した英雄とのみかたもある。このことが各地に首塚など多くの遺跡を生むことにもなった。茨城県岩井市の国王神社に将門の木像がある。
コトバンクより引用)

そもそも私は、平氏についてもよくわかっていません。
一口に平氏と言っても、その系譜はいくつにも分かれているようです。
平将門公は桓武天皇から派生した平氏に属するようです。

さて、
平将門公と関東、特に現代の茨城と我孫子市の辺りは関りがたいへん深いようです。

また平将門公には妙見菩薩(妙見様・妙見信仰)との逸話があり、妙見菩薩の加護の下で戦ったのだそうです。

今回は平将門や平氏については深く掘り下げません。理解が足りていないので。

ですが、
中央(朝廷)からは疎まれた平将門公は、当時の関東の人々からは慕われたのではないでしょうか?

関東の寺社を参拝していくと、そこかしこに平将門公のお姿を偲ぶことができるのかもしれません。

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