青春18きっぷでめぐる千葉県の姫神様⑥ 房総半島の神社と御祭神について考察する

青春18きっぷでめぐる千葉県の姫神様⑥ 房総半島の神社と御祭神について考察する

青春18きっぷでめぐる千葉県の姫神様

ことの発端は

「いかにしてJRのローカル線が乗り放題の青春18きっぷを活用して遠方の神社に参拝すべきか・・・」

といったところでした。
遠方の神社に参拝する場合、高速バスや新幹線などを使った方が時間的な節約になります。
しかし、高速バスや新幹線の便が悪く、基本的にJRのローカル線でしか行けないような場所にある神社といえば・・・。

そのような考えに基づき、鹿島神宮・香取神宮を参拝させて頂き、そのすぐあとに大甕神社と静神社にも参拝させて頂きました。

青春18きっぷでめぐる鹿島神宮・香取神宮のご紹介はこちらをクリックしてください。

青春18きっぷでめぐる大甕神社・静神社のご紹介はこちらをクリックしてください。

そして、
JRのローカル線で参拝できる(埼玉から見て)遠方の神社としてお見かけしたのが・・・上総国一之宮の玉前神社だったわけです。

発端は青春18きっぷにあったのですが、いざ実際に上総国一之宮の玉前神社や上総国二之宮の橘樹神社に参拝させて頂くと、やはり閃くものがありました。

青春18きっぷでめぐる千葉県の姫神様の総括として、

房総半島の神社と御祭神から、かつての房総半島の姿と神社の御祭神の変遷について考察していきたいと思います。

なお、
この度の考察は多分に超個人的な考察です。
考察の主たる部分は私の想像によるものなので、一般的に事実とされていることとはかけ離れている可能性がありますので、フィクションとしてお楽しみください。

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玉前神社・橘樹神社・蘇我比咩神社の御祭神のご紹介

上総国一之宮の玉前神社の御祭神

御祭神
玉依姫命(たまよりひめのみこと)

玉依姫命はたいへん有名な神様です。
もっとも有名なのは、玉依姫命が初代天皇である神武天皇のお母さんとされていることではないでしょうか。

初代天皇の神武天皇のお母さんである玉依姫命が、なぜ現在の千葉の外房半島という地に祀られているのでしょうか?
(当時の千葉県を含む関東はほぼ未開の地だったはずなのに、神武天皇のお母さんである玉依姫命をそんな未開の地に祀るのは不思議である)

また、
玉依姫命というお名前は固有名詞ではなく、特別な巫女を指す普通名詞だともされているそうです。

玉依姫命について興味のある方はこちらをクリックしてください。

上総国二之宮の橘樹神社の御祭神

御祭神
弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)

弟橘姫命は日本武尊(やまとたけるのみこと)のお后様とされている神様です。

そして日本武尊の東方遠征にお供されて、日本武尊が現在の東京湾を千葉方面に渡る際に海が大荒れになり、海神の怒りを鎮めるために海に身を投げたとされる神様でもあります。

弟橘姫命に興味のある方はこちらをクリックしてください。

日本武尊について興味のある方はこちらをクリックしてください。

蘇我駅近くにある蘇我比咩神社の御祭神

御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
蘇我比咩の大神(そがひめのおおかみ)
春日大明神(かすがだいみょうじん)
応神天皇(おうじんてんのう)
千代春稲荷の大神
御霊の大神

(御祭神は蘇我比咩神社ホームページのまま)

蘇我比咩神社はお名前のとおり、蘇我氏のお姫様を祀る神社と考えられます。

現在は御祭神が多くいらっしゃいますが、もともとは蘇我比咩(姫)大神を祀っていたと推測できます。
(もしくは蘇我氏が守護神と崇めた『比売大神(ひめのおおかみ)』とも考えられる)

こちらの蘇我比咩大神は、弟橘姫命が海に身を捧げた際に、弟橘姫命に同伴して海に身を投げたお姫様でもあるのです。

まさか蘇我比咩神社の御祭神が弟橘姫命がこのような関わりがあるとは・・・。

また、
蘇我比咩神社の由緒書きから、蘇我氏が春日大社を守護神として崇めていたことが分かります。

しかし現在の春日大社の守護神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)であり、武甕槌命は現代では藤原(中臣)氏が崇めた神様とされています。

このことから、
神社では御祭神の変遷があることが窺えます。

蘇我氏について興味のある方はこちらをクリックしてください。

房総半島の神社の御祭神の変遷を考察する

神社の御祭神は、おそらく変遷があるものだと考えられます。

週末ただたかでは御祭神の変遷について、千葉県の蘇我比咩神社とさいたま市の月読社から考察してあります。

さいたま市の月読社のご紹介はこちらをクリックしてください。

今回の考察では神社の御祭神は変遷があるということが大前提となります。

賛否はもちろんあるでしょうが、そのことを御承知頂ける方はこれより先を読み進めて頂ければと思います。

それではこれより神社の御祭神の変遷について、玉前神社や橘樹神社の御祭神から考察していきたいと思います。

縄文時代、千葉県は島だった!?

今回の考察をしていく上で知っておいて頂きたいのは、現在の関東の地形とかつての関東の地形は大きく違うということです。

まずは縄文時代について。
縄文時代はいつ頃を指すのか、私は明確に分かっていません。
個人的な考えでは、縄文時代とはおおよそ紀元前500年よりも前の時代を指すのではないかと考えています。

そして縄文時代について抑えておきたいことがあります。
それは、
縄文時代が一万年も続いた稀有な文明であるらしい、ということです。

一万年も続いた文明というのは、世界的に見ても珍しいのだそうです。

それではなぜ縄文時代が一万年も続いたかというと、現在の日本列島の関東以北は森林資源が豊かであったからと私は考えています。
(氷河期の後、日本列島は樹々が豊かに生い茂ったらしい。特に関東以北は樹々の恩恵が厚かったと考えられます)

森林資源とは、木の実とか、獣の肉とか、そして水を指します。テングノムギメシもあったのかもしれません。
ゆえに、縄文時代は人々が生活をする上で、十分な環境があったのだと思われます。

もう一つ、縄文時代が一万年も続いた理由を挙げてみます。
それは、ある時代まで外からの侵略が極端に少なかったからだと考えられます。
(時代が下ると縄文の人々は蝦夷とされ、侵略を受けたと思われます)

紀元前の東北地方は、おそらく鬱蒼とした樹々に覆われた山々が連なり、外からの侵略が容易ではなかったと考えられます。

それではなぜ、紀元前の関東は外からの侵略を受けにくかったのか?

一つは関東が東の果ての地であり、ある時代までは侵略の対象にならなかったことが考えられます。
そしてもう一つは、
縄文時代の関東は陸路がほとんどなく、互いに行き来をすることが困難だったことが考えらえられます。

そう、
当時の千葉県は島だったのです。

縄文海進と関東の様子

氷河期が終わり、世界中で氷が溶け始めたことで、世界の海の水位は上昇したとされています。
俗にいう縄文海進というやつです。
縄文海進のピークは紀元前6000年ごろなのだとか。(不確定な情報です!)
紀元前6000年から徐々に時間をかけて、海の水位が引いていき、また火山の噴火や流されてきた土砂などに大地が埋め立てられ、現在の地形になっていったとされています。

縄文海進に興味のある方はこちらをクリックしてください。

その縄文海進により海の水位が高かった時代、現在の千葉県はほぼ島だったそうです。
鹿島神宮のある辺りもほとんど独立した島だったとされています。

さて、
縄文海進から、縄文時代の千葉県がほぼ(完全に?)大きな島だったことが考えられます。
そして縄文時代の技術では、あえて海を越えて新しい土地へ移ろうをは考えなかったことも推測されます。

現在の外房の海を実際に見て、「けっこう波が荒いな」と思いました。

この海を縄文時代の操船技術で渡るのは困難だったことでしょう。

ゆえに、
縄文時代の千葉県(関東の他の地域も)は、外からの侵略を受けず、長い年月に渡り人々が生活していたと考えられます。

縄文時代は独自の文化と信仰が花開いた!?

縄文時代は一万年も続いたとされる稀有な文明です。

また、
橘樹神社にある説明書きからも、縄文時代に人々が房総半島で生活していたことが分かります。

そして縄文時代の千葉県にフォーカスをあてると、『島』として長い間独立し、外からの侵略を受けず、独自の文化と信仰が築かれていたことが推測されます。
(鎖国をした島国の日本で、和算などの独自の文化が発展したみたいな感じです)

さて、
縄文時代はあまり外との争いがなかった時代だとされています。
そして、
命を育む女性が神聖視されたとされる時代でもあります。
縄文時代の土偶が女性の形をしたものが多いことからも、縄文時代は女性を崇めていたことが十分に考えられます。

さて、
ずいぶんと前書きが長くなってしまいました。
ここからが神社の御祭神の変遷の本題です。

玉前神社や橘樹神社は縄文の人々の信仰の場所だった!?

橘樹神社にある説明書きから、現在の房総半島には縄文の人々が生活していたことが分かります。

もちろん現在の橘樹神社の辺りだけではなく、現在の玉前神社の辺りでも縄文時代の人々が生活をしていたことは十分に考えられます。

さて、
人々が一か所に集まると、自然と信仰のようなものが生まれるのは必然です。
そしてそれこそが、神社の原初の姿なのだと私は考えています。

ここからは多分に想像を含みます。
というより100パーセント想像です。

現在の玉前神社の辺りで、縄文時代の人々の間に信仰が生まれました。
山や海といった自然に対する信仰もあったと思われます。
そして同時に、命を育む女性を神聖視する信仰も生まれたのだと思われます。
(女性を神聖視する信仰は世界各地の古い文明にはよくありますし)

そしてその女性を神聖視する信仰が、やがて形を成し、建物のようなものを作るようになっていったのではないでしょうか?

その建物のようなものこそが、玉前神社の原初の姿なのではないでしょうか?

玉前神社が現在の姿に遷移した経緯を想像してみる

それではなぜ現在の玉前神社に、初代天皇である神武天皇のお母さんの玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られるようになったのか?

それはおそらく、時代が下り、縄文の人々が外からの侵略を受けたからではないでしょうか。
外からの侵略とは大和朝廷からの侵略を指します。

大和朝廷が日本列島の統治を進めていくなかで、当然現在の千葉県にもやってきます。
そこで土着の人々(縄文人を指す)と接触し、土地を差し出すことを迫ったはずです。

そう、出雲で行われた『国譲り』のように

ここで思い出して頂きたいのですが、
古事記・日本書紀には『国譲り』は武力によって成されたとは記されていません

古事記では建御名方神(たけみなかたのかみ)と武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)との戦闘描写がありますので、多少の戦闘行為があったことは推測されます。
ですが『国譲り』を成し得たのは戦闘ではなく、交渉などといった平和的な行為が占める部分も多かったと考えられます。

個人的には天穂日命(あめのほひのみこと)の役割が大きかったと考えていたりします。
天穂日命と国譲りに興味のある方はこちらをクリックしてください。

玉前神社から見る御祭神の変遷

さて、
『国譲り』から想像すると、現在の外房の辺りで生活していた縄文の人々は多少の戦闘行為はあったかもしれませんが、わりと平和的に大和朝廷に土地を明け渡した(共有した?)のではないかと考えられます。

そんなにも簡単に土地を明け渡すだろうか?

当然の疑問かと思います。
だからこそここで、玉前神社の御祭神が初代天皇である神武天皇のお母さんである玉依姫命であることが関わってくるのです。

ここで信仰に関するある事例を持ち出します。
古代のヨーロッパでは、他国の土地を手にした際、その土地で崇めていた神様を自国の神様と同じ神様だとしたそうです。

「あなたち(侵略された側)が崇めている水の神は、我らの国の水の神と同じ神様なんだよ!」

といった感じです。
より具体的に述べるならば、ヨーロッパには『ヴィーナス』と『アフロディーテ』がいますけど、どちらも同じ愛と美を司る神様です。
どうもギリシャではアフロディーテで、ローマではヴィーナスなのだとか。

しかしアフロディーテもヴィーナスも愛と美の神様であり、同一視されていると言ってもよいかと思われます。

ヨーロッパの神様はあまり詳しくないので上手く説明できないのですが、もっと身近な例で考えると神仏習合があります。

神仏習合。
仏教が日本で広がった際に、もともとの日本の神様と仏教の神様を同じ神様として崇めるようになりました。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は大日如来で、須佐之男命(すさのおのみこと)は牛頭天皇とされたりします。

そう、
古代のヨーロッパや神仏習合で分かるように、その土地の神々は外の土地の神々と習合してきたのです。
(たとえば大国主命や須佐之男命といった日本の神様も、そもそも多くの土地で崇められていた神々の習合と考えられる)

その神様の習合が、千葉の外房で行われたのではないでしょうか?

具体的には、
房総に住まう縄文の人々が信仰してきた神様(という概念かは不明)は、命を育む女性だったと考えられます。

そして大和朝廷が侵略してきた際、大和朝廷はこのようなことを言ったのではないでしょうか?

「私たちも命を育む女性を神聖視していますよ。なかでも日本を統治した初代天皇である神武天皇のお母さまである玉依姫を神聖視しています。つまりあなた方(房総の人々)が崇めるその女性(の神様)は、私たちの崇める女性のなかでも特に立派な、玉依姫のことなのです」

そう、
初代天皇である神武天皇のお母さんとされる玉依姫命を、房総に住まう縄文の人々が崇める女性像(神様?)と同じだと説いたのではないでしょうか?

信仰の対象が同じ。
これからも今まで崇めてきた女性像(神様?)を信仰し続けることができる。

それならば、大和朝廷に土地を譲っても(共生)してもよいのではないか?
と房総に住まう縄文の人々は考えたのではないでしょうか。
そのように土着の神様(?)と大和朝廷の神様をを習合することで、平和的な側面も持って、大和朝廷は日本を統治していったのかもしれません。

また、
そう考えると、なぜ現在の外房という日本列島の東の端に、神武天皇のお母さんである玉依姫命という神様が祀られているのかも想像できます。

だって、
外房に住まう縄文の人々が納得する神様じゃないといけないじゃないですか。

日本を治めたという神武天皇のお母さんである玉依姫命であれば、縄文の人々も納得したのかもしれません。

橘樹神社から見る御祭神の変遷

さて、
橘樹神社の御祭神である弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)についても、同様のことが考えられます。

私が橘樹神社に参拝させて頂いた素直な感想は、

「あまりにも立派だ!」

ということでした。
こちらが橘樹神社の本殿(拝殿)。
とても立派です。

失礼ながら、本当に失礼なのですが、日本武尊の何人もいらっしゃるお后様のお一人を祀るにしては、橘樹神社の社殿は立派すぎる気がします。

さらに拝殿の裏には弟橘姫命の御陵があり、小高い丘自体が御陵の様は、まるで古墳です。
これではまるで、箸墓古墳に眠るとされている倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみことのようではありませんか。

本当に失礼なのですが、日本武尊の何人もいらっしゃるお后様のお一人を祀るにしては、橘樹神社は立派すぎる気がするのです。

さて、
そこからあることが考えられます。

そう、
橘樹神社の御祭神が、それほど立派な社殿と御陵(古墳)に祀られるほどの神様であれば、不思議でもなんでもないのです。
(本当に失礼なのですが)

そしてその神様とは、現在の橘樹神社の辺りに住んでいた縄文の人々(土着の人々)が崇めていた存在だったのではないでしょうか。

先に述べたように、縄文の人々が崇めたのは女性像(神?)だったはずです。
そのお姿は巫女の姿で顕現していたのかもしれません。
そう、卑弥呼のような存在だったのかもしれません。
そう考えれば、橘樹神社の社殿の立派さと御陵(古墳)があることも納得できなくもありません。

そして土着の、縄文の人々が、神聖視する女性像(神?)を崇めるために用意した場所こそが、現在の橘樹神社の前身なのではないでしょうか。

やがて時代が下り、大和朝廷がやって来て、玉前神社と同様に神様の習合が行われ、やがて房総の地に縁のある姫神様として、弟橘姫命が橘樹神社の御祭神となった。

そう考えると、外房にある橘樹神社の御祭神が弟橘姫命であることにも納得ができます。

なぜなら!
そもそも弟橘姫命の慰霊のために橘樹神社を建てたのであれば、橘樹神社は東京湾に面した内房にあるはずではないでしょうか。

日本武尊は茨城(鹿島)に向かうために、現在の東京湾を舟で渡り、現在の千葉県に向かったはずです。
そうなると必然、日本武尊を乗せた舟の目指す先は千葉の内房に向かったはずです。

蘇我比咩神社の主祭神である蘇我比咩大神が、現在の蘇我(内房といえる)に流れついたとされていることからも、日本武尊の進路が内房だったことが推測されます。

それなのに、
橘樹神社は現在の外房にあるのです!

日本武尊の東征時(紀元後100年前後と考えられる)は現在より海進が進んでいたとしても、千葉はすでに陸続きになっていたはずです。
(千葉が島だったのは6000年前とかだと思われます)

ですので、日本武尊を乗せた船が房総半島をぐるりと回って、外房に向かったというルートは考えにくいです。

橘樹神社の地図
画像はwebより転用)

このことから、
もともと橘樹神社のある場所には土着の人々(縄文の人々)の崇める施設があり、そこが大和朝廷の侵略と同時に神社となり、やがて弟橘姫命を祀るようになったのではないでしょうか。

そう、
橘樹神社もまた、土着の人々が崇めた神(?)から、御祭神の変遷があったのだと考えられます。

千葉に姫神様を祀る神社が多い理由を考察する

ずいぶんと長くなってしまいました。
最後までくじけずに読んで頂いた方、ありがとうございます。

さて、
千葉を縄文時代まで遡ることで、おそらく千葉では女性を神聖視していた時代があったのだと想像できます。

おそらく、現在の玉前神社や橘樹神社のある辺りで、女性に対する信仰が篤かったのだと考えられます。

そしてそこに大和朝廷がやって来た。
そして神様の習合が行われた。
もともと土着の人々が女性を崇めていたので、大和朝廷の祭る神様も当然女神様となった。

ゆえに、
現在の千葉県の房総半島では姫神様を祀る神社が多いのではないでしょうか?

以上はこれといった根拠のない、超個人的な考察です。
どこまでも私個人の考えであり、根拠もなければ裏付けもありません。

しかし、
もしそうだったとすると、やはり現在の神社を参拝することで、かつての日本の姿が見えてくるように思います。(幻覚?)

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