氷川三社をめぐる一日② 氷川女體神社と竜神

氷川女體神社は竜神を祀っている?

ご存じのとおり(?)氷川女體神社には竜神社があります。

そこに祀られている神様は、竜神に間違いないかと思われます。

そしてそこから

竜神 = 見沼

という可能性が十分に考えられます。

ではなぜ竜神が見沼を指すのか?
なぜ氷川女體神社は竜神(見沼)を祀っているのか?

そこを超個人的な解釈で掘り下げていきたいと思います。

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さいたま市に広がる見沼

そもそもさいたま市民でもない限り、『見沼』と言われてもなんだそれ?となるかもしれません。
ですのでまずは見沼の紹介。

見沼とは、
かつてさいたま市にあった広大な沼を指します。
さいたま市見沼区、とあるように、現在でも見沼の名前は残っています。

そう、見沼の名前は残っているのです。

ですが・・・、
見沼自体は残っていません。

それというのも、

見沼たんぼが開かれたのは江戸時代中期、徳川吉宗とくがわよしむねの時代です。
徳川吉宗とくがわよしむねによる幕府の財政改革(享保の改革きょうほうのかいかく)のため、土木技術家・ 井沢弥惣兵衛為永いざわやそべえためながに、数多くあった池沼の新田開発が命じられました。
その一つとして、享保12年(1727年)に 八丁堤はっちょうづつみを切って見沼溜井みぬまためい が干拓され、見沼たんぼが生まれました。
そして、干拓された 見沼溜井みぬまためい の代わりとなる農業用水の確保のため、利根川から約60kmに渡って用水が引かれ、 見沼たんぼの 西縁にしべり と 東縁ひがしべり の台地にそって水路が掘削され、農業用水が供給されました。
これが 見沼代用水みぬまだいようすい です。
見沼たんぼが開かれてから、今日まで稲作が行われており、特に戦後は食糧増産を支える貴重な農業生産の場となりました。
                             (見沼たんぼのホームページより引用)

享保の改革の際に田んぼになってしまったのです。

(現代の見沼田んぼの一例)

それはそれで必要なことだったと思われます。
ですが結果として、『見沼』という存在は見えなくなってしまいました。

昔の見沼の姿

これを初めて見たときは正直イメージが湧きませんでした。

氷川女體神社の鳥居の手前にある立て看板。
見沼の変遷の歴史を詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。

Y字型の緑色の部分がかつての見沼の大きさを表しています。
これほど巨大な沼がさいたまにあったとは驚きです。

その見沼もいまや影も形もありません。

ですが、
見沼代用水などに見沼の面影を偲ぶことができます。
(写真は氷川女體神社の手前にある見沼代用水)

そしてまた一方では、

見沼は形を変えて現代にも存在し続けているのです。

見沼の磐舟祭祭祀遺跡

氷川女體神社の参拝を終えて鳥居をくぐると、眼下に朱色の欄干の橋が見えます。

その名も氷川女體橋を渡って見沼代用水を越えると、

左手にこのような石碑が。

磐舟祭祭祀遺跡復元記念とあります。

ちなみに磐舟祭とは、

享保12年(1727年)、見沼の干拓により、古より行われていた氷川女體神社の御手洗瀬である見沼に神輿を渡御させる「御船祭」の神事は、中止せざるを得なくなりました。そこで、神事の形態を改め、鳥居下の突端に柄鏡形の土壇を設け、その周囲に池を配し、祭祀の場としました。享保14年、名称を「磐船祭」として復活しましたが、江戸時代の終わりとともに祭も廃止となりました。
                              (さいたま市ホームページより抜粋)

時代によって名称や神事の方法が変化してきた祭りだそうです。

見沼が形を残していた時代は、見沼の奥まで舟で進み、神事を行ったそうです。
竜神に捧げる神事であったと言えるのかもしれません。

見沼は姿を消してしまいましたが、せめて神事を行えるようにと、このように場所を設けたのです。

磐船祭祭祀遺跡の中へ

正面に見えるのは氷川女體神社の鳥居です。

背中側が

磐船祭祭祀遺跡への入り口です。
写真では分かりませんが、両端は池(沼)になっています。

ほんの10秒も歩くと、真っ直ぐ進むか左に進むか、決断を迫られます。

左には

木製の欄干がよい感じの橋があり、その先には丸い空間があります。

そこにある社。
丸い浮島を模したような空間から弁財天を祀っている可能性もありますが、おそらく祀られているのは竜神かと思われます。

参拝して道を引き返して、今度は直進します。

緩いアーチを描いた石橋がよい感じです。

石橋から見える池(沼)。
倒木により雑然としているが、どこか美しくもある。
あと鴨もよく見かける。

石橋を渡った先にあるのが

4本の竹(と背の低い樹木)に囲われた祭祀跡です。

ゆっくり歩いても5分もあれば見て回れる広さしかありません。

ですが、それでも見沼は形を変えてさいたま市に存在し続けているのです。

祇園磐船竜神祭

御舟祭や磐船祭はなくなってしまいました。

ですが、見沼の祭は現代に復活しています。

それが祇園磐舟竜神祭です。

近年になって有志により復活したようで、5月4日(おそらく例年)に執り行われています。

こちらは2017年の様子。

まずは氷川女體神社にて執り行われ、

磐船祭祭祀遺跡にて執り行われます。

祭は
巫女神楽(内容は近代のものだったように思われる)や、
和太鼓の演奏、
巨大な竜のバルーンの舞などがある。

もちろん写真はない。
肝心要の竜の写真すらない。

磐船祭が名前を変えて復活したことは喜ばしいことです。
この祇園磐船竜神祭がどう感じるかは意見が分かれるかもしれませんので、気になる方は一度見てみてはいかがでしょうか。

竜神 = 見沼 の超個人的考察

さて、
氷川女體神社と磐船祭祭祀跡を見て頂いたところで本題です。

なぜ竜神 = 見沼なのか?

それは
八岐大蛇と同じ理屈です!

気でも触れたか。
もしくは元々気が触れていたのか。
とお思いになったかもしれません。

安心してください。
いちおう考えはあるのです。

さて、八岐大蛇といえば須佐之男命が退治したことで有名な話です。
武蔵一宮氷川神社の回でも触れています。

その八岐大蛇の伝承ですが、
一説には河川の氾濫を示すものだとされています。

そしてその河川の氾濫を治めたのが須佐之男命であったと。
そのことから、須佐之男命が治水技術の優れた神様であったことが推察されます。

さて、
同様のことが見沼にも考えられます。

そもそも見沼は、
『神沼』『御沼』であったそうです。
名前のとおり、敬われていたことでしょう。

なぜ敬われていたか?

それは当時の人々にとって見沼が貴重な水源であったからではないでしょうか。

文明はほとんどの場合水辺に興ります。
4大文明はもちろん、八岐大蛇が暴れた出雲(斐伊川近辺)もそのことを指し示しています。
(マスターキートンでは4大文明のみを取り上げる教科書を「まるで縄文時代の教科書だ」と言っていますが、ここでは気にしないでください)

ゆえに、
見沼の水が人々にとってどれほど大切なものだったかは想像に難くありません。
それこそ信仰の対象になるほどに。

だからこその御舟祭(磐船祭)なのでしょう。

見沼が貴重な水源であったことから敬われるようになったことが分かりました。

ではなぜ見沼 = 竜神なのか?

その答えこそ、八岐大蛇の伝承と同じです。
そう、
見沼もまた氾濫したのでしょう。

見沼は貴重な水源であると同時に、一度氾濫を起こすと人々の手に負えるものではなかったのでしょう。
それこそ荒れ狂う八岐大蛇のように。

そんな見沼の荒れ狂う姿を見て、人々はそこに竜を見たのかもしれません。
ゆえに見沼は、竜神が棲むと言われるようになったのではないでしょうか。

貴重な水資源であり、氾濫を起こす見沼。
人々は畏敬の念を持って見沼に接したことでしょう。
それが形となったものが、御舟祭(磐船祭)であり、竜神社なのではないでしょうか。

そう考えると、
竜神社に祀られているのは竜神であり、見沼であると考えられます。

氷川三社と見沼の関係性の超個人的考察

この地図をよおく見て頂くと分かるのですが、

氷川神社、中山神社、氷川女體神社が一直線に並んでいます。

これはレイラインとされています。

レイライン自体は賛否あるようですが、ここ氷川三社に関してはある程度信憑性が高いと思われます。

というのも、
そもそも氷川三社は見沼を治水するためにあるのではないかと考えられるからです。

上の地図にあるように、氷川三社は見沼に沿って建てられています。

また、そもそも氷川神社には稲作を司る神様として須佐之男命が祀られたとあります。

そう、氷川神社は稲作のために建てられたとも言えるのです。

そして稲作に必要不可欠なものが水と太陽です。

水はもちろん見沼を指します。
見沼を上手いこと治水できれば貴重な水源となったことでしょう。

そして太陽に関してですが、
確証はありませんが、大宮の氷川神社は夏至を、氷川女體神社は冬至を観測できる位置にあるらしいです。
こちらは太陽の観測でもあり、暦を知るということでもあります。

以上のことから、氷川三社と見沼に強い関わりがあるのではないかと推察されます。

しかしそうなるとあの疑問が強くなる。

なぜ氷川女體神社に須佐之男命が祀られていないのか?
もっとも治水と稲作に深い神様であるはずなのに・・・。

残念ながらその謎に対する答えは持ち合わせていません。

とまあ、以上は超個人的な解釈ですので、話半分ぐらいにしておいて頂ければと思います。

ですが個人的には、
姿を消した見沼が、磐船祭祭祀跡と竜神社を通して現代の人々の生活の中にあるということがとてもすばらしいことに思えます。

真面目な感じで締めておけばとりあえずなんとかなるだろう。
とか考える自分が嫌になったところで、次回に続きます。

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