太田道灌も必勝祈願した駒込にある妙義神社に参拝

太田道灌も必勝祈願した駒込にある妙義神社に参拝

御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)

合殿神
高御産霊神(タカミムスビノカミ)
神功皇后(ジングウコウゴウ)
応神天皇(オウジンテンノウ)

こちらの妙義神社ですが、『戦勝(かちいくさ)の宮』と呼ばれ信仰を集めていたそうです。

あの太田道灌も必勝祈願に訪れた由緒ある神社なのだそうです。

現在の妙義神社は、JR駒込駅からほど近い路地裏にひっそりと鎮座されています。
東京都内ということもあり、境内はどうしても狭くなってしまいます。
しかしその限られた空間のなかで、妙義神社は存在感を持って現代にあるのです。

勝利を望む方も、そうでない方も、参拝されてみてはいかがでしょうか。
桜の季節はたいそう美しい神社のようですよ。




太田道灌も必勝祈願した妙義神社へのアクセス

〒170-0003 東京都豊島区駒込3丁目16−16
JR駒込駅から徒歩5分ほど

山手線沿線もちょっと路地に入れば不思議な感じがするぞ!

いざ、太田道灌も必勝祈願した妙義神社へ参拝

こちらが妙義神社の鳥居です。

こじんまりとしていますが美しい鳥居です。

鳥居をくぐれば由緒書きがあります。

階段を登れば、

本殿(拝殿)があります。

簡素な社殿がすばらしい。
豪華絢爛や荘厳な社殿もすばらしいですが、簡素・質素な社殿もまたすてきです。

こちらの本殿の右手に摂末社があります。

道灌霊社とあります。
太田道灌にゆかりのある神社のようです。

ちなみにこちらの妙義神社の手水舎ですが・・・

なんとも勇ましい!
竜が兜をかぶっています!
これは勝利の御利益がありそうです。

太田道灌も必勝祈願した妙義神社の御由緒

日本古代史における伝承上の英雄 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構えたと伝えられています。
日本武尊が東征した後、この地に社が建てられ、日本武尊が白鳥に生まれ変わり飛び立ったという伝説から、白雉(はくち)2年(651)5月12日、白鳥社と号しました。
豊島区内では最古の神社として伝えられています。

また、「新編武蔵風土起稿」※によると、最初に江戸城を築いた室町時代後期の武将 太田道灌は、文明3年(1471)5月、古河公方 足利成氏との戦に出陣する際、当社に参詣し、神馬、宝剣を寄進し戦勝を祈願しました。

その時、近臣である樋口与三郎兼信と次のような連歌を詠んだと伝えられています。

雲はらふ この神垣の風の音 (道灌)
草をも木をも 吹きしほり行 (兼信)
※「新編武蔵風土起稿」・・・文化・文政期、1810年から1830年にかけて編纂された武蔵国の地誌。
※神垣・・・神社を囲い神域と他を区別する垣。

道灌はこの戦に勝ち凱旋した際、当時の通貨である15貫文を社領として寄進しました。

その後、文明9年(1477)春、平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門を討伐する際や(長尾景春の乱)、同11年(1479)春、室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める際にも道灌は当社に必勝を祈願し、見事勝利を収めました。
この様なことから、当社は当時から「勝負の神様」「戦勝の宮(みや)」と呼ばれ、人々よりあつい信仰を集めました。当時、当社境内には稲荷山という小高い山があり、道灌は稲荷山に立ち豊島氏の平塚城を望みながら戦略を考えたのではと思われます。
妙義神社ホームページより引用)

太田道灌のご紹介

[生]永享4(1432)
[没]文明18(1486).7.26. 相模
室町時代中期の武将。資清の子。幼名は鶴千代麿。源六郎と称し,持資,のち資長と改名。左衛門大夫,備中守,正五位下に任じ,入道して春苑道灌と号した。父資清は武蔵国都築郡太田郷に住み,扇谷上杉氏に仕えた。康正1 (1455) 年父の跡を継ぎ,のち上杉定正の執事となり,長禄1 (57) 年江戸城を築いて居城とした。文明8 (76) 年,山内上杉憲定の家臣長尾景春が乱を起すと,憲定,定正を助けてこれを平定し,主家の隆盛に貢献した。しかし,定正は,扇谷上杉氏の勢力伸長を快しとしなかった憲定や越後の上杉房定の讒言を真に受け,相模糟屋の館で道灌を暗殺した。法諡は大慈寺殿心円道灌居士。道灌は軍事に通じ,特に農兵を組織的に動かすこと (足軽軍法) にすぐれていた。また文学を好み,和歌にも長じていた。文明6年には江戸城で歌合せを,同 17年には江戸城静勝軒に定正を招き和歌会を,また同年,美濃の詩僧万里集九を江戸城に滞在させ詩歌会を開いていることから,その造詣の深さが偲ばれる。
コトバンクより引用)

大戸道灌が江戸城を築いたんですね・・・。

ちなみに、
秋葉原(という地名はないが)にある柳森神社も太田道灌と縁がある神社のようです。

柳森神社は

長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのがはじまり

なのだそうです。

柳森神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

妙義神社の御祭神のご紹介

御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)

合殿神
高御産霊神(タカミムスビノカミ)
神功皇后(ジングウコウゴウ)
応神天皇(オウジンテンノウ)

御祭神の日本武尊は関東に祀られていることが多い神様です。
というのも、
日本武尊はお父さんの景行天皇に命じられ、東征をしたとされています。
その東征は現代の茨城県にも及んだのだそうです。
ですので関東圏には日本武尊が立ち寄った神社が多く、御祭神に日本武尊を祀る神社も多いようです。

日本の古代史における伝承上の英雄。『古事記』では倭建命と書く。『古事記』『日本書紀』では景行天皇皇子で,幼名を,オウスノミコト (小碓命) という。武勇に優れていたため,父天皇の命による西方の熊襲征伐には童女に扮して川上梟帥 (かわかみのたける) に近づきこれを討った。そのとき梟帥が,日本で最も強い男という意味からオウスノミコトに「日本武」皇子の名を奉ったという。しかしこれは一個人の名前ではなく,歴史的には何人もの「日本武」がいたものとみられる。その後オウスノミコトは東方の蝦夷平定に向かう途中,天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ。別称草薙剣 ) で野火の難をはらい,走水 (はしりみず) の海では妃のオトタチバナヒメノミコト (弟橘比売命) の入水により海上の難を逃れたが,伊吹山で賊を征伐中,伊勢国の能褒野 (のぼの) で崩じたという。死後その霊は白鳥となり大和に渡ったので当地に陵をつくったが,さらに白鳥は河内に飛び去ったためそこにも陵をつくり,ともに白鳥陵と称したという。このように『日本書紀』は日本武尊の死を「崩」とし,墓を「陵」と記すなど天皇に準じており,また『常陸国風土記』では倭武天皇と記している。
コトバンクより引用)

日本武尊はひとりを指すのではない、という説があります。
これは十分ありうることだと考えられます。
というのも、
神社に祀られている神様は、多くの神々の習合された姿、であると考えられるからです。
まあこの話は長くなるので機会があればということで。

また、
日本武尊の奥さんの弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)に興味のある方は以下をクリックしてください。

弟橘姫命を祀る上総国二之宮橘樹神社のご紹介はこちらをご覧ください。

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