安曇野の神社①海神(わたつみ)族の神様、穂高見命を祀る穂高神社に参拝

安曇野の神社①海神(わたつみ)族の神様、穂高見命を祀る穂高神社に参拝

御祭神
中殿 穂高見命(ほたかみのみこと)
左殿 綿津見命(わたつみのみこと)
右殿 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
別宮 天照御大神(あまてらすおおみかみ)
若宮 阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)
相殿 信濃中将(しなののちゅうじょう)

長野の旅の目的は『建御名方神』と『ミシャグチ神』について知ること。
ですが、
せっかくなので安曇野の地にも足を伸ばしてみました。

安曇野。
個人的にちょっと印象に残っている地名です。
そして歴史的にもおもしろい土地でもあります。
なぜならこの安曇野の地に根を張った民族は海神(わたつみ)族なのです!

長野といえば山!
山深き土地です!
その山に囲まれた土地になぜ海の民族が!?

むむ、歴史は不思議です。

さて、
今回は穂高神社だけではなく、
安曇野の地に根を張った海神族、
海神族が祀った穂高見命と綿津見命という神様、
そして御舟会館(資料館)で目にしたあるものをご紹介させて頂きたいと思います。




海神族の神様、穂高見命を祀る穂高神社へのアクセス

〒399-8303 長野県安曇野市穂高6079
JR大糸線穂高駅から徒歩5分ほど
(大鳥居までだと10分ほど)

穂高駅前はこじんまりとしているが、
とてもきれいで観光案内所もあるぞ!

穂高神社までの道中にある『おやき』が美味しい。
200円で具沢山。

いざ、海神族の神様、穂高見命を祀る穂高神社へ参拝

穂高神社の大鳥居と本殿(拝殿)のご紹介

こちらが穂高神社の大鳥居です。

ですがこちらに人影は見られず。
ここまではあまり人が来ないようです。

こちらが本殿(拝殿)前の大鳥居。

木製の鳥居は美しい。

大鳥居をくぐると正面には大きな舞殿が!

たいへん美しい舞殿です。
諏訪大社下社秋宮の舞殿も荘厳でしたが、
長野の舞殿は大きなものが多いのでしょうか?
(建築家と時代の関係でこのような大きな舞殿が流行ったのかもしれません)

こちらが穂高神社の本殿(拝殿)。

左右に翼を広げたかのような形は長野の神社に多く見られるように思います。

そしてこちらの穂高神社の本殿(拝殿)から、
安曇野の土地には御柱はないことがわかります。

穂高神社の御由緒のご紹介

穂高見命を御祭神に仰ぐ穗髙神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。そして奥宮は穂高連峰の麓の上高地に祀られており、嶺宮は北アルプスの主峰奥穂高岳に祀られています。穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)安曇族はもと北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式神名帳には名神大社に列せられ古くより信濃における大社として朝廷の崇敬篤く、殖産興業の神と崇められ信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。
また当社は三殿あるご本殿一殿を二十年毎造り替える式年遷宮祭を五百年以上のかなり前より齋行しております。
古くより日本アルプスの総鎮守、交通安全、産業安全の守り神として広く信仰され、近年では初宮詣、厄除、八方除など個人の幸せを祈る人があとを絶ちません。
穂高神社ホームページより引用)

安曇族に関して非常に興味深い記述がありますが、
詳しい話は後ほど。

穂高神社の摂末社のご紹介

穂高神社の摂末社は、
拝殿を正面に右手にあります。

若宮社

御祭神
若宮 安曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)
相殿 信濃中将(しなののちゅうじょう)

また、
こちらの若宮の左手にあるのが手前から、

四神社
御祭神:少彦名命・八意思兼命・誉田別命・蛭子神・猿田比古命
保食神
御祭神:宇気母智命(うけもちのみこと)
子安社
御祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
事比羅社
御祭神:大物主神
八坂社
御祭神:素戔嗚尊

右手にあるのが手前から

疫神社
御祭神:素戔嗚尊
秋葉社
御祭神:軻遇突智命(かぐつちのみこと)
八幡社
御祭神:誉田別命
鹿島社
御祭神:武甕槌神(たけみかづちのかみ)

長野の神社に祀られている神様といえば建御名方神(たけみなかたのかみ)。
私が実際に参拝させて頂いた長野駅周辺や諏訪湖周辺の多くの神社の御祭神は、建御名方神でした。

そして建御名方神と因縁があるとされる神様、それが武甕槌神(たけみかづちのかみ)。
言わずと知れた国譲りを成したとされる神様です。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る神社といえば、鹿島神宮が有名です。

そのような武甕槌神(たけみかづちのかみ)が、
摂末社とはいえ安曇野にある穂高神社の境内に祀られていることは少し気になります。

奥宮、嶺宮の遥拝所のご紹介

穂高神社の奥宮は、遠く望む奥穂高の山頂にあるそうです。
奥穂高の山頂に穂高見命が天降られたのだとか。

遥拝所のそばには穂高神社賛歌が掲示されています。

拝殿近くにある阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)の像

拝殿を正面に右手に進むと、境内を鳥が闊歩しています。
(烏骨鶏???)

たまたま見かけた鳥を通り過ぎると、
阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)の像があります。

阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)穂高神社境内の若宮社に祀られています。

説明書きを転記するのもたいへんですので以下引用です。

阿曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、飛鳥時代の人物。名は比良夫とも書く。氏は阿曇氏(安曇氏)だが阿曇山背(安曇山背)と表記されるもの[1]もある。冠位大錦中

舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、舒明天皇13年(641年)天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使を伴って帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐[2]を自分の家に迎えている。斉明天皇7年(661年高句麗の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子と共に百済に渡った。大錦中に任じられた。

天智天皇2年(663年)8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市穂高神社に安曇連比羅夫命[3]として祀られる。同神社の御船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは阿曇比羅夫の命日であるとされる。
Wikipediaより引用)

こちらの阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)という人物から、
穂高神社の御船祭は起こったとされているそうです。

ちなみに、
こちらの阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)の像のすぐ近くに
健康長寿道祖神なる像があります。

こちらの健康長寿道祖神は日本でいちばん大きな道祖神であり、
ステンレスで作られているのだとか。

後にご紹介する道祖神もですが、
長野で見かける道祖神は夫婦であることが多いようです。

道祖神と夫婦。
一見すると関係がなさそうでもありますが、
よくよく知っていくと道祖神と夫婦は当然の組み合わせのように思えてきます。

安曇野の伝説日光泉小太郎

穂高神社の鳥居をくぐった左手に日光小泉小太郎の像があります。

少し長いですが、
泉小太郎伝説の内容を引用します。

むかしむかし、松本、安曇(あずみ)の平(たいら)は山々のさわから落ちる水をたたえた湖でした。そして、ここに犀龍(さいりゅう)という者が住んでいました。

また、ここから東の高梨(今の須坂市高梨あたり)というところの池には、白竜王という者が住んでおり、やがて鉢伏山(はちぶせやま)というところで、二人の間に男の子が生まれました。

日光泉小太郎と名づけられた男の子は、放光寺山(今の松本市城山)あたりでりっぱに成長しました。泉小太郎が大きくなるにつれて、母の犀龍は自分のすがたをはずかしく思い、湖のそこにかくれてしまいました。

小太郎は、こいしい母の行方(ゆくえ)をたずね回り、熊倉下田の奥の尾入沢(今の松本市島内平瀬と田沢のさかいのあたり)で、やっとめぐりあうことができたのです。

母の犀龍は、小太郎にしずかに語ってきかせました。「私は、本当は諏訪大明神の化身(けしん)なんですよ。氏子(うじこ)を栄(さか)えさせようとすがたをかえているのです。おまえは、この湖をつきやぶって水を落とし、人の住める平地をつくるのです。さあ、わたしの背中(せなか)に乗りなさい」

言われて小太郎は、母犀龍の背中に乗りました。この地は今も犀乗沢(さいのりざわ)とよばれています。二人は、山清路(今の東筑摩郡生坂村山清路)の巨岩をつきやぶり、さらに下流の水内の橋の下(今の上水内郡信州新町久米路橋あたり)の岩山をつきやぶり、千曲川の川すじから越後(新潟県)の海まで乗りこんで行きました。

こうして、安曇平の広大なと地ができたのです。そして、小太郎と母犀龍が通った犀乗沢から千曲川と落ち合うところまでを、犀川とよぶようになりました。その後、小太郎は有明の里(今の北安曇郡池田町十日市場)でくらし、子孫(しそん)は大いに栄えたといいます。

(長野県ホームページより引用)

泉小太郎伝説に出てくる犀龍(さいりゅう)ですが、
この犀龍に関係すると思われるものが穂高神社の御船会館にあります。
ご紹介は後ほど。

海神族を物語る船

手水舎の脇に海神族を物語る船が展示されています。

もちろん近代になって作られたものですが、
かつて海神族がこのような船に乗っていたのかと想像することができます。

古代の航海術を甘く見てはいけないのです。

ものぐさ太郎はどこまでもものぐさなのか?

本殿へ続く鳥居をくぐらず右手に進むと、
ものぐさ太郎の物語を伝えるレリーフがあります。

少し長いですがものぐさ太郎に関する引用です。

渋川判『御伽草子』のひとつ「物くさ太郎」の主人公。信濃国筑摩郡あたらしの郷に,物くさ太郎ひじかすという無精者が寝て暮らしていた。あまりの物ぐさぶりに驚きあきれた地頭は,村人に彼を養うように命令するが,やがて京の国司から村に夫役がかかったとき,この夫役を物くさ太郎に押しつける。京に上ると人が変わったようにまめまめしく働き,夫役を無事に務め,妻となるべき女性を探し求めて清水寺の門前に立ち,見初めた貴族の姫と恋歌の掛け合いの末に勝って結婚する。貴族になった太郎は,やがて深草帝(仁明天皇)の孫が善光寺に申し子して授かった子であることが判明し,信濃の中将に任じられて帰国する。120歳まで生き,死後はおたかの明神,妻は朝日の権現として祭られる。昔話の「隣の寝太郎」と同系統の説話であるが,怠け者で貧しい男が巧智を用いて長者の婿になるという寝太郎型の昔話では,物語の舞台が農村に限定されているため,知恵の優位を強調することで物語を展開させているのに対して,この物語では後半部の舞台を農村から都へ移すことで意外性に満ちた波瀾万丈の物語になっている。つまり,太郎の行動すなわち農村での「物くさ」から都での「まめ」への極端な行動の変化を通じて,農村と都では社会システムとそれを支える価値・倫理が異なっていることを語り示しているのである。さらに,この「物くさ」と「まめ」の対立的な行動の背後には,中世人の「のさ」という行動原理が貫いているとの解釈もなされている。中世の農村では,日ごろ養っていた乞食などを実際の犯罪者の身代わりに立てて処理するという習慣があったので,その習慣がこの物語における物くさ太郎の養育と夫役の関係にも反映されているとみることもできる。
(コトバンクより引用)

さて、
こちらのものぐさ太郎ですが、
見方によってはものぐさ太郎が地頭よりも立場が上の人物とも見れます。
それではものぐさ太郎とはいったい・・・?

塩の道道祖神郡

ものぐさ太郎のレリーフをさらに右手に進むと、
様々な道祖神が並ぶエリアがあります。

千国街道(塩の道)と道祖神とあります。
一部抜粋しますと、

ここは昔、安曇野を南北に結んだ戦国街道です。
北は遠く日本海に通じ、上杉謙信が塩を運んだ塩の道と呼ばれています。

とあります。
昔がいつを指すのかは不明ですが、
遠い昔から安曇野と日本海を結び交易路があったことが想像できます。
(この交易路が個人的に重要なのです!)

いちばん下の写真が餅つき道祖神です。
杵を男性、臼を女性と見立て、男女の睦事を『餅つき』として表しているのだとか。
端的に言うと男女の性交を表しているのです。

さて、
この男女の性交と道祖神は深く関わっているのかもしれません。

最後にご紹介する境内の端にある厳島社

穂高神社の境内の端には厳島社があります。

荘厳な穂高神社の拝殿や舞殿と比較すると、
たいへんこじんまりとした神社です。
また向いている方角も北と、何かを思わずにはいられません。

さて、
厳島神社といえば宮島にある厳島神社が有名であり、
日本の各地にある神社です。
関東だと江ノ島にある厳島神社が有名かと。

その厳島神社の御祭神ですが、
宗像三女神です。

宗像三女神のお名前が示すように宗像氏の祀る神々と考えられます。

宗像氏の祀る神々が、
阿曇(安曇)氏の神を祀る穂高神社の境内の端にある。

これは因縁めいたものを感じずにはいられません。

ということで、
穂高神社の考察や阿曇(安曇)氏についてはあらためて。

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