皇居の近くに祀られる平将門公の首塚に参拝

皇居の近くに祀られる平将門公の首塚に参拝

平将門公の首級を祀る

平将門公。
お名前を聞いたことはあっても、何を成した人物なのかはっきりと答えられない方も多いのではないでしょうか。

そう、私も答えられないひとりです。

もともと私は神代の神様に興味が強く、よって古事記や日本書紀はちょこっとばかり勉強していたりします。
ですので、武士や戦国時代、近代の歴史には疎かったりします。

しかし、
神社に参拝を続けていくと、平将門公のお名前を目にする機会が増えてきます。
関東圏、特に茨城や茨城よりの千葉の神社を参拝すると、平将門公のお名前をよくお見掛けします。

そうなれば必然、
平将門公とはどのような人物であったのか気になるのが人情です。

一般的には怨霊と恐れられる平将門公ですが、果たして怨霊と恐れられるような人物なのでしょうか?




平将門公の首塚へのアクセス

〒100-0004 東京都千代田区大手町1−1
JR東京駅から徒歩15分ほど
地下鉄大手町駅からだと地上に出て1分ほど

平将門公の首塚は丸の内(大手町?)にあるぞ!
東京の中心地に平将門公の首塚が現在もあるのは不思議な感じがするぞ。

いざ、平将門公の首塚に参拝

東京の中枢、皇居のすぐ近くに現在も鎮座する平将門公の首塚。
JR東京駅から皇居に向かって歩くこと10分ちょっと、

こちらが平将門公の首塚です。
首塚は高層ビルに囲まれた一角にあります。
背後(というか周囲)は高層ビルを建設中です。

こちらが境内の様子です。

東京の中心という立地もあり、境内はけっして広くありません。
(立地を考えると広すぎるともいえますが)

しっかりと管理されていて、庭園のようなたたずまいです。

こちらが平将門公の首級を祀っているとされる塚です。

境内の入口から直角に曲がって、西の方を向いています。
その先にあるのは皇居でしょうか。
それとも遠い京都を向いているのでしょうか。

塚の脇には多数のカエルがいらっしゃいます。
愛嬌のあるカエルです。

平将門公とカエルに何か関係があるのでしょうか?
平将門公とカエルの関係性については何かわかったときにご紹介させて頂きたいと思います。

平将門公の首塚のご紹介は以上です。
こじんまりとした境内は整然としています。
それだけ丁寧に管理されているということでしょう。

また、
私以外にも多くの方が参拝されていました。
現代でも平将門公は崇敬を集めているのです。

平将門公のご紹介

[生]?
[没]天慶3(940).2.14. 下総,北山
平安時代中期の武将。鎮守府将軍良将の子。上京して藤原忠平に仕えたが,官途を得ず下総に帰った。前常陸大掾源護と争い,これに味方した叔父国香を殺し,国香の子貞盛に攻められたが,これを打ち破った。のち常陸国府を焼打ちし,下野,上野の国府を攻略して,新皇と号し,下総に王城を営み,文武百官を任命した。朝廷では,征東大将軍藤原忠文に討伐させたが,その軍の到着以前に,下野押領使藤原秀郷の助けを得た貞盛に殺された。死後,その霊は神田明神の将門社 (東京都千代田区) に祀られた。 (→承平・天慶の乱 )

侠気に富む行動に対して悪逆無道の人物という評価のある半面,国家の苛政に勇敢に反抗した英雄とのみかたもある。このことが各地に首塚など多くの遺跡を生むことにもなった。茨城県岩井市の国王神社に将門の木像がある。

コトバンクより引用)

平将門公は見る方向によって大きく性格が変わります。

●朝廷側から見ると、反逆者であり悪逆無道の人物。

●板東(=関東)の人々から見ると、期待をこめた英雄。

正反対の評価です。
しかしこの正反対の評価こそが、平将門という人物の実態だったのだと思われます。

怨霊
とされる平将門公ですが、それは朝廷から見た平将門公のお姿なのでしょう。
板東の人々にとっては平将門公は国家と戦う英雄だったのかもしれません。
ゆえに、板東では平将門公が信仰されたのだと思われます。
その面影が、現代の茨城や茨城と千葉の県境辺りに見られます。

千葉県我孫子市にある将門神社に興味のある方はこちらをご覧ください。

そして気になるお名前が。
平将門公を討ったとされる藤原秀郷(俵藤太)なる人物ですが、そのお名前が東京は新橋にある烏森神社に出てきます。

平将門公を祀る神田明神。

藤原秀郷にゆかりのある烏森神社。

興味のある方は神田明神のご紹介烏森神社のご紹介をご覧ください。

平将門公の首塚の御由緒

平将門公に関する説明がいちばん下の由緒書きに集約されていますので、一部抜粋させて頂きます。

平将門公は自ら平新皇と名乗って政治の革新を図ったが、平清盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。
享年三十八歳であった。
世にこれを天慶の乱という。

将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後光を放って当方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。
大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。
村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。

といった記述があります。
このような伝承があるからか、平将門公は怨霊とされるのかもしれません。

さて、
実際に将門公の首が突如光を放ち、空を飛んでいくなどということがあったのでしょうか。

現実的に考えて死者の首が空を飛んでいくことは考えにくいです。
それではこの伝承は何を示すのか?

それはおそらく、
将門公を信望する何者かが、京都でさらされていた将門公の首を持ち出したことを表しているのではないでしょうか。

将門公は朝廷にとって反逆者です。
討伐こそできたものの、将門公の振る舞いには相当頭にきたことでしょう。
そんな将門公の首が手元にやってきたのです。
憎き将門公の首です。
当時、戦に敗れた将は、死んでなお辱められたことでしょう。

その行為を、許せない者がいたのかもしれません。
そしてその者は、命を賭して将門公の首を奪取した。
そして将門公を板東(関東)の地へとお返しした・・・。

といったストーリーが想像できます。
もっともこれは私の根拠のない想像です。
ですが、そうであってもおかしくないほど、平将門という人物は崇敬を集めていたのかもしれません。

当時の関東の人々にとって、平将門という人物は英雄だったのかもしれません。

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