安曇野の神社③穂高神社の御祭神から阿曇(安曇)氏について考察する

安曇野の神社③穂高神社の御祭神から阿曇(安曇)氏について考察する

御祭神
中殿 穂高見命(ほたかみのみこと)
左殿 綿津見命(わたつみのみこと)
右殿 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
別宮 天照御大神(あまてらすおおみかみ)
若宮 阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)
相殿 信濃中将(しなののちゅうじょう)

長野は安曇野の地にある穂高神社。
その穂高神社ですが、阿曇(安曇)氏の神様を祀る神社です。

阿曇(安曇)氏といえば海の一族。
海神(わたつみ=綿津見命(わたつみのみこと)を祀る一族とされています。

その海神を祀る一族である阿曇(安曇)氏がなぜ山深き長野は安曇野の地に勢力を持つに至ったのか?

そして阿曇(安曇)氏とはどのような一族なのか?

今回の週末ただたかでは、
阿曇(安曇)氏に関して穂高神社の御祭神から考察をしてみたいと思います。




安曇野の地にある穂高神社の御祭神のご紹介

穂高神社のご紹介はこちらをご覧ください

あらためて穂高神社の御祭神を簡潔にご紹介していきます。
興味のある方は穂高神社ホームページもご覧ください。

中殿 穂高見命(ほたかみのみこと)

穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)安曇族はもと北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式神名帳には名神大社に列せられ古くより信濃における大社として朝廷の崇敬篤く、殖産興業の神と崇められ信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。
穂高神社ホームページより引用)

また綿津見命(わたつみのみこと)の御子神であるとのことです。
順序立てると

綿津見命⇒穂高見命⇒阿曇(安曇)氏

となるようです。
また別名を宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)とする説もあるようです。

左殿 綿津見命(わたつみのみこと)

古事記」にみえる
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美(いざなみの)命の間に生まれた,底津綿津見,中津綿津見,上津綿津見の3神。をつかさどり,海人族により信仰された。「日本書紀」では少童命(わたつみのみこと)。
コトバンクより引用)

コトバンクがたいへん簡潔でしたので引用します。

綿津見命とは一般的に、
底津綿津見命(そこつわたつみのみこと)中津綿津見命(なかつわたつみのみこと)、上津綿津見命(うわつわたつみのみこと)の3神を指すようです。

住吉大社の御祭神の住吉三神である、
底筒之男神(そこつつおのかみ)、中筒之男神(なかつつおのかみ)、上筒之男神(うわつつおのかみ)
とは別の神様とする説や、同じ神様とする説があるようです。

また綿津見命と大綿津見神は別の神様のようですが、
長くなりそうなので今回は割愛します。

右殿 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)

天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫。天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命令で、葦原の中つ国を統治するため、高天原(たかまがはら)から日向(ひゅうが)高千穂峰天降ったとされる。木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を妻とし、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)。
コトバンクより引用)

初代神武天皇は瓊瓊杵尊のひ孫にあたる?

別宮 天照御大神(あまてらすおおみかみ)

日本神話で、高天原(たかまがはら)主神伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり、また、皇室祖神として伊勢神宮内宮に祭られている。大日孁貴(おおひるめのむち)。あまてるかみ。
コトバンクより引用)

天皇家の祖神とされる神様。
現代では日本の神様の中心とされている神様ですが、
よくよく知ると謎の多い神様でもあります。

若宮 阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)

大将軍。

相殿 信濃中将(しなののちゅうじょう)

ものぐさ太郎。
ものぐさなお方。

安曇野の地にある穂高神社と御祭神から阿曇(安曇)氏について考察する

さて、
上記のとおり、素直に考えれば穂高神社の御祭神は阿曇(安曇)氏の祀る神様と考えられます。

また瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)や天照御大神(あまてらすおおみかみ)が近い位置に祀られていることから、朝廷(中央勢力)と縁の深い神社と考えることもできます。

瓊瓊杵尊も天照大御神も天津神の代表的な神様ですから。
その神々を祀る穂高神社=阿曇(安曇)氏は朝廷(中央勢力)と密接なつながりがあったということでしょうか。

穂高神社が長野の地にありながら、境内に建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀っていないことからも中央勢力よりなのではと推測できます。

穂高見命は阿曇(安曇)氏が祀っていた神様なのか?

正直この疑問は消せません。

なぜなら、
穂高見命はそのお名前が示すように、穂高の山々(穂高岳)を示す神様と思われるからです。

そもそも阿曇(安曇)氏は海神の一族です。
お名前が示すとおり『海』の一族です。
その本来の拠点は現在の福岡県にあったとされています。

その阿曇(安曇)氏の祖神が、
山の神と推測される穂高見命ということはあり得るのでしょうか?

そこで、
私の推測はこうです。

穂高見命は安曇野の土着の人々の信仰していた神様であり、
阿曇(安曇)氏が安曇野の地にやってきた際に阿曇(安曇)氏が祀る神(=綿津見命)と習合した(系譜に組み込まれた)のではないでしょうか。

支配による習合だったのか、
対話による習合だったのかは分かりません。
ですが、仮に穂高見命と綿津見命が習合されたのであれば、それは古事記や日本書紀が作られる以前のことと考えられます。

綿津見命⇒穂高見命⇒阿曇(安曇)氏

という系譜になるには、
古事記や日本書紀が作られる以前に阿曇(安曇)氏による安曇野の土地の平定が必要になりますから。

阿曇(安曇)氏は日本の各地にそのお名前を見かける一族です。
なぜ阿曇(安曇)氏が日本の各地を動き回ったかは不明です。
それは朝廷(中央勢力)の命によるものだったのか、
それとも他に理由があったのか。

あらためて阿曇(安曇)氏についてはご紹介することができればと思いますが、
今回はこのあたりで終了です。

それでは最後に、阿曇(安曇)氏に関する一つの説を取り上げます。

阿曇(安曇)氏は宗像氏に敗れ現在の福岡の地を去ることになったのか?

阿曇(安曇)氏は現在の福岡県にある志賀海神社のあたりに拠点を持っていたのではないかと考えられます。
志賀海神社の御祭神は阿曇(安曇)氏の祀る綿津見命です。

そして一説によると、
同じく北九州の海を駆けていた海の一族、である宗像氏に、阿曇(安曇)氏は敗れ北九州の地を離れたとされています。

宗像氏(=宗像三女神を祀る)と阿曇(安曇)氏(=綿津見命を祀る)が、
当時の海を支配する一族だったのかもしれません。

阿曇(安曇)氏と宗像氏の関係は現時点ではよく分かりません。
ですが、
一つ穂高神社の境内にある興味深い神社をご紹介しておきます。

穂高神社の境内の端にある、こじんまりとした神社。
穂高神社本殿(拝殿)と比較するとずいぶん簡素な神社です。

こちらの神社は厳島社です。
御祭神はおそらく宗像三女神でしょう。

宗像氏の祀る神々がひっそりと穂高神社の境内に祀られている。
この事実はなにを示すのでしょうか?

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