動物ひしめく鶯谷の神社 小野篁命を祀る小野照崎神社に参拝

動物ひしめく鶯谷の神社 小野篁命を祀る小野照崎神社に参拝

御祭神
小野篁命(おののたかむらのみこと)
菅原道真命(すがわらのみちざねのみこと)

上野駅や鶯谷駅の近くの神社を回っていた際、こちらの小野照崎神社に参拝させて頂きました。

こちらの小野照崎神社ですが、
見どころがありすぎる神社です!

御祭神は歴史が生んだ天才、小野篁公。
(菅原道真公は江戸後期に祀られるようになったようです)

御祭神の小野篁にちなんでか、境内には昭和を代表する囲碁棋士、藤沢原秀行氏の『強烈な努力』という言葉が!

本殿(拝殿)脇には浅間神社(富士山を)を模した富士塚がある!
(実際に6月30日と7月1日の2日間は登れるようです)

お守りの進化版、お守り2.0の取り扱いがある!

そして境内には、さまざまな動物がいらっしゃる!

いろいろと特徴に溢れる小野照崎神社。
googleマップの織姫神社の名前に惹かれて参拝させて頂いた神社なのですが、実際に参拝させて頂くとたいへんすばらしい神社でした。

神社が好きな方も、そうでない方にも、おすすめの神社です。




小野篁公を祀る小野照崎神社へのアクセス

〒110-0004 東京都台東区下谷2丁目13−14
JR鶯谷駅から徒歩10分ほど

鶯谷駅から小野照崎神社までは方向感覚がおかしくなるぞ!
(個人の感想です)

いざ、小野篁公を祀る小野照崎神社に参拝

こちらが小野照崎神社の入り口です。
掲題の入り口には橋があり、しっかりとした神社だと感じさせてくれます。

陽が暮れかけていた時間に参拝したことが功を奏したのか、提灯の明かりがすばらしい雰囲気を醸し出してくれています。

橋を渡った先に鳥居があります。

鳥居をくぐった右手には庚申塚があります。

奥にさるの石像が見えます。
庚申塚の『申』から、さるの石像が置かれているのでしょう。
手前にはねこもいますけど。

鳥居をくぐった正面、よりやや左にそれた方向に本殿(拝殿)があります。

せっかくですのでもう少し寄ってみます。

さりげなくフレームインしてくる手際は見事としか言いようがありません。

こちらが本殿(拝殿)です。
御祭神は小野篁公と菅原道真公。

富士塚と富士塚を守るおサルさま

本殿(拝殿)の左手に富士塚があります。

富士塚浅間神社とあります。
富士山を模した富士塚の前には、門ががっちり閉められています。
おそらくこちらの門が6月30日と7月1日には解放されて、富士塚に実際に登ることができるのでしょう。

それにしても、
なぜ富士塚の前に対になった猿の石像があるのでしょうか?
浅間神社と猿はこれといった関係がありましたっけ?

恋愛と仕事の御利益のある織姫・稲荷神社

鳥居の手前にあるのが織姫・稲荷神社です。
(写真の左に見える社殿)

御祭神は境内にある由緒が気によると倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
織姫神社の御祭神については由緒書きにも記載がありません。

神額(扁額)には織姫神社、稲荷神社とあります。
こちらの『織姫神社』というお名前から、

「もしや建葉槌命(たてはつちのみこと)に関係がある神社なのか・・・!?」

と思ったりしたのですが、
こちらの織姫神社は戦後に合祀された(小野照崎神社ホームページより)とのことですので、建葉槌命とは関係がなさそうです。

織姫とされる建葉槌命に興味のある方はこちらをご覧ください。

こちらの織姫・稲荷神社にいらっしゃるおきつねさまですが、

ちょっとスリムでかわいらしいかったりします。

おいぬさまのいらっしゃる三峯神社と御嶽神社

本殿(拝殿)を右手に進んでいくと、

三峯神社と御嶽神社が合祀された社殿があります。
三峯神社の御祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)。
御嶽神社の御祭神は國常立命(くにとこたちのみこと)。

御祭神の表記は境内にある由緒書きのままです。

社殿の両脇にいらっしゃるのはおいぬさま。というより大神(オオカミ)でしょうか。
三峯神社とオオカミは関りがあるのだそうです。

ちなみにこちらの社殿ですが、本殿(拝殿)と面する方向がやや正対しています。
境内の土地の問題でしょうか?
それとも他に理由があるのでしょうか?

狛犬が正面を向いた鳥居

小野照崎神社にはもう一つ鳥居があります。
三峯神社と御嶽神社の社殿の先に進んだところにもう一つの鳥居があります。

なんと鳥居の脇に構える狛犬が正面を向いているではありませんか!

といっても、
こちらの狛犬は本殿(拝殿)脇にいるわけではないんですけどね。

一般的に狛犬は、狛犬同士が向き合っているものとされています。
しかし稀に(わりと?)狛犬が正面を向いていることがあります。
有名なところだと、神田明神の狛犬が正面を向いています。

正面を向いた狛犬に興味がある方はこちらをご覧ください。

小野照崎神社のここが興味深い!

小野照崎神社には興味を惹かれるものがたくさんあります。

お守りのその先へ、お守り2.0

お守りの進化系、それがお守り2.0!
なんでもこのお守りはSNSで宣誓することで願いはより強固になり、同じ志を持つ人とSNSを通して結びつくのだとかうんぬん・・・。
さらにあの堀江貴文氏も関りがあるとかうんぬん・・・。
お守りとITが結びついたうんぬん!

といったすごいお守りなのです!

強烈な、強烈な努力が必要だ!

小野照崎神社の境内には昭和を代表する囲碁棋士、藤沢原秀行氏の記念碑があります。

中央辺りに丸い石があります。
碁石を模したものだと思われます。

強烈な努力が必要だ
ただの努力じゃダメだ
強烈な、強烈な努力だ

とあります。
何かを成すにはただの努力じゃダメなんですね。
強烈な、強烈な努力が必要なのです!

境内には動物があふれている

富士塚浅間神社と庚申塚にはさるが。

織姫・稲荷神社にはスタイルのいいおきつねさまが。

三峯神社・御嶽神社にはおいぬさまが。

あと、

フレームインの上手いねこも。

小野篁公を祀る小野照崎神社の御由緒

 平安初期の儒学者であり、歌人である小野篁公が御東下の際、御遺跡を留められたことから「上野殿」と尊称され、祀られたのが当社の創始であります。「令義解」を始め多くの著書を残し、足利学校を創立されました。
東京都神社庁ホームページより引用)

小野照崎神社の御祭神のご紹介

御祭神
小野篁命(おののたかむらのみこと)
菅原道真命(すがわらのみちざねのみこと)

小野照崎神社の御祭神は小野篁公です。
関東の神社だと御祭神に小野篁公のお名前を見ることはほとんどないような気がします。

ちなみに菅原道真公が小野照崎神社の御祭神となったのは江戸時代後期のことだそうなので、実質小野照崎神社の御祭神は小野篁公のみと言えるでしょう。

さて、
小野篁公ですが、

[生]延暦21(802)
[没]仁寿2(852).12.22.
平安時代前期の漢詩人,歌人。小野妹子の子孫で,岑守 (みねもり) の子。少年時代弓馬に熱中したが,嵯峨天皇のいさめで学業に励んで大学に学び,『令義解 (りょうのぎげ) 』の撰定に加わった。承和5 (838) 年遣唐副使となったが病と称して渡航せず,隠岐国に流された。許されたのちに陸奥守などを経て参議にいたった。その博識,詩才は世に重んじられ,奔放な性格は野狂 (やきょう) と称された。また書家としても知られ,のちに彼を主人公にして『篁物語』が書かれている。

平安前期の公卿,文人。『凌雲集』の選者岑守の子。嵯峨天皇が武芸好きの篁をみて,父に似ぬ子と慨嘆したと聞いて発憤,学問に専心するようになったといい,その型破りの性格から野狂(粗野と小野を兼ねる)と称された。「無悪善」という落書きを,「サガ(悪)無クバ,善カリナマシ」(嵯峨天皇がいなかったら世の中がよくなるのに)と詠んで嵯峨の怒りを買ったというエピソードもある(『江談抄』)。承和1(834)年遣唐副使に任命されたが,同5年,3度目の出発のとき,大使藤原常嗣から篁の船を求められたことに憤慨,病気と偽って乗船を拒否したため隠岐に配流された。その際「西道謡」をつくって渡唐を批判したというが,詩は伝えられていない。2年後召還され,同14年,参議。博識多才で漢詩は白楽天,書は王羲之父子に匹敵するといわれたほど。『経国集』『和漢朗詠集』『古今集』などに作品を残すほか,『令義解』の編集にも携わった。冥土へ往来したとか,冥官(地獄の閻魔王の庁の役人)になったといった類の逸話が多く(『今昔物語』『江談抄』),珍皇寺(京都市東山区)や千本閻魔堂(引接寺,上京区)にはそうした伝承がある。隠岐(島根県)にも篁にまつわる幾つかの伝承を残す。京都市北区にある紫式部のそれと並ぶ土まんじゅうが,古来篁の墓とされてきた。

平安前期の漢詩人、歌人。小野妹子(いもこ)の子孫で、父は『凌雲(りょううん)集』の撰者(せんじゃ)小野岑守(みねもり)。一族に書家道風(とうふう)や武人好古(よしふる)がいる。参議に任ぜられて、野宰相(やさいしょう)、野相公(やしょうこう)などとよばれた。多感、俊才、あるとき嵯峨(さが)天皇が『白氏文集(はくしもんじゅう)』の一節を一部変えて示したところ、白楽天のもとの詩にまったく同じように改めたとか、「子」の字を12並べたのを、「猫の子の子猫、獅子(しし)の子の子獅子」と読んで頓才(とんさい)を示したとか、詩のすばらしさから、大臣藤原三守(みもり)の婿になれたとか、その才人ぶりは、説話化されてではあるが、『宇治拾遺物語』『十訓抄(じっきんしょう)』『江談抄(ごうだんしょう)』などにさまざまな形で伝えられている。自らをたのむところもまた強かったらしく、838年(承和5)の遣唐使派遣の際には、トラブルを起こして乗船を拒否し、ために隠岐(おき)国(島根県)配流という憂き目にもあっている。現存している作品はきわめて数が少ない。わずかに『経国(けいこく)集』以下に詩文が、『古今和歌集』以下に和歌が残されているにすぎず、大部分は散逸したようである。なお家集として『小野篁集』があるが、これは『篁物語』『篁日記』などともよばれており、実は篁説話を素材とした後人の手になる作品と考えられる。
わたの原八十(やそ)島かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟[久保木哲夫]

コトバンクより引用)

少し長いですがコトバンクより引用させて頂きます。

さて、
ここで気になるのが、

なぜ小野篁公が現代の上野の地に祀られ続けているのか、

ということです。
小野篁公は奔放な性格から『野狂』と称されたのだとか。
それゆえ隠岐に島流しにあったり(2年で戻されたらしい)、打ち首を告げられかけたりと、波乱の多い人生だったようです。

しかしその非凡な才を持つがゆえに、天皇からも一定以上の評価を受けていたようでもあります。

さて、
そのような小野篁公ですから、関東に赴任させられたのも島流し的な要素があったのかもしれません。
難のない天才なら、朝廷に置いておきたいでしょうから。

もっとも、
菅原道真公のように優秀すぎて朝廷を追われ、失意のうちに大宰府で亡くなってしまったという例もあります。

朝廷の中で小野篁公の敵は多かったことでしょう。
しかし、朝廷の中にも小野篁公を高く評価していた人物もいたのかもしれません。
もしかしたら小野篁公は、関東という辺境の土地に赴任させられることによって、その命を守られていたのかもしれません。

広告