氷川三社をめぐる一日⑦ 中山神社(中氷川神社)

氷川三社の一つ、中山神社に参拝

御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)

主祭神は大己貴命と思われます。
その理由は後ほど。

氷川三社に興味のある方はこちらをクリックしてください。
(別のウィンドウで開きます)

大己貴命

須佐之男命と奇稲田姫(稲田姫)命の子、もしくは6代(7代)後の孫とされる神様。
大国主命と同一の神様であるとされている。
国土経営の神様とされているので、日本中の多くの神社に祀られています。
読み方を覚えにくいという方は『おおあなむちのみこと』と覚えるとよいですよ。
(私も昔は『おおむなち』とたびたび読み間違えたので)

須佐之男命

週末ただたかでも何度もお名前が出てきているたいへん有名な神様。
武蔵一宮氷川神社にも祀られている。
伊弉諾尊の子であり、天照大御神の弟。
出雲を治めた神様として有名だが、個人的には埼玉に非常に関わりの深い神様だと考えている。

稲田姫命

氷川女體神社に祀られている奇稲田姫命の別表記。
個人的には奇稲田姫命というお名前の方がしっくりくる。
なぜなら櫛の姿に身を変えて須佐之男命に寄り添った神様だから。
『いなだひめ』より『くしいなだ(くしなだ)ひめ』の方が合っているように思います。




氷川三社の一つ、中山神社へのアクセス

山邑神社から徒歩でがんばれる

いざ中山神社へ参拝

武蔵一宮氷川神社、武蔵國一宮氷川女體神社、そしてこの中山(中氷川)神社の三つの神社を氷川三社と呼ばれています。
(武蔵一宮氷川神社のホームページには「由緒を別とする神社」とあるが、個人的には非常に関係の深い神社であると考えている)

週末ただたかでは武蔵一宮氷川神社、武蔵國一宮氷川女體神社はすでにご紹介してあります。
ようやく最後の一社、中山神社のご紹介です。

まずは一の鳥居。

この鳥居の周りの景色、神社っぽくないですよね。
それというのも、

この鳥居は住宅地の中にぽつんと立っているのです。
中山神社の参道は県道1号線(第2産業道路)に横切られているのです。
もっとも武蔵一宮氷川神社の参道もいくつもの道路に横切られていますけどね。

取り残された一の鳥居。
それでも鳥居を撤去しないところに、中山神社が大切にされているのだと感じます。

一の鳥居をくぐり、県道1号線を横断すると、少し神社の参道っぽくなります。

すぐそこに県道1号線が走っているのはずなのに、意外に静かです。

中山神社の鳥居です。
ちなみに扁額(神額)には『氷川神社』とあります。
不適切な表現ではありますが、かっこいい鳥居です。
一般的に鳥居といえば朱塗りであったり、石造りであったりします。

しかしこちらの鳥居はかっこいい鳥居です。
どこか京都の嵐山にある野宮神社の木の鳥居を思わせます。

境内(二の鳥居の内側)です。
参拝した時には陽が傾き始めていたので少し薄暗いですが、中山神社の境内はいつもきれいに保たれています。
武蔵一宮氷川神社に比べるとだいぶ規模の小さな神社ですが、管理のよさは遜色ないのではないでしょうか。
神主さんや氏子さんが大切にしていることが一目瞭然です。

ちなみに右手前にあるのは鎮火祭の祭場です。

鎮火祭については去年の写真がありますので、次回ご紹介します。

中山(中氷川)神社の本殿と旧社殿

こちらもやはりきれいに保たれています。

こちらの本殿の裏手に回ると、

旧社殿が残されています。
写真だと分かりにくいですが、この建物(外枠)の中に社殿がそっくり保存されています。

社殿の祖型といわれる『見世棚造り』から『流造り』に発展していく過渡期の遺構で、室町末期から桃山期にかけて建てられた市内最古の建造物とあります。
非常に歴史的価値があるものがひっそりと佇んでいる。それが中山神社のすてきなところです。

中山(中氷川)神社の摂末社

八社

左から
神明社
飯成(いなり)社
淡島社
疱瘡守護社
磐(いわい)神社
石上(いそのかみ)神社
竈(かまど)神社
稲田宮主社
とあります。

この八社、それぞれの神社を調べてみると非常に興味深いものがあります。
考察は後ほど。

稲荷神社

御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

こちらが境内(二の鳥居の内側)にある稲荷神社です。

こちらは二の鳥居の脇にある稲荷神社です。

荒脛神社

御祭神
不明

おそらくアラハバキ神社と読む。
以前武蔵一宮氷川神社のご紹介の際にお名前が出た神社(荒脛巾社)と同じ、もしくは関係の深い神社と思われます。
(現在武蔵一宮氷川神社では荒脛巾社はなく、門客人神社となっている)
しかし現時点ではあまりにも知識不足。いつか理解が進んだときには、あらためてご紹介したいと思います。

中山(中氷川)神社の超個人的考察

氷川三社のなかでも、こちらの中山神社はまた違った側面で興味を惹かれます。

なぜ中山神社という名称になったのか?

まずは由緒から。

武蔵一宮氷川神社が男体宮(父)、
武蔵國氷川女體神社が女体宮(母)、
そして中山神社が簸(ひ)王子宮(子)であるとあります。

つまり氷川三社は三つの神社で親子を表していることになります。
ちなみに簸王子宮は氷王子宮とも書いたそうです。

ゆえに簸王子宮(子)である中山神社の主祭神は須佐之男命と奇稲田姫命の子どもである大己貴命であると考えられます。

創建は崇神天皇の御代二年とされているとのこと。
おそらく紀元前に創建されたのではないかと個人的には考えています。
というのも、武蔵一宮氷川神社が二千四百年程前に創建されたという説があるからです。

また毎年12月8日に行われる『鎮火祭』からも、相当古い神社であることが想像できます。

というのも、
中山神社は中氷川神社であったとされています。
現在でも通称は中氷川神社のようです。

武蔵一宮氷川神社は中山神社は由緒を別とする神社としていますが、どう考えても関係の深い神社としか思えません。

さて、その中氷川神社がなぜ中山神社という氷川神社と関係のないお名前になったかというと、

鎮火祭の炎で氷が溶けてしまったため中氷川が中川となった

という説があります。
そうして中川という地名になり、江戸期の新田開発以来氏子付き合いを続けていた上山口新田の「山」を合わせて、中山神社となったそうです。

鎮火祭が示すもの

この鎮火祭ですが、

人々が火を扱い始めたことを示すのではないかと考えています。

突飛な話であるのは分かっています。
安心してください、至って正常ですよ(たぶん)。

ですが中山神社のお名前の由緒にもあったように、鎮火祭の炎によって氷が溶かされたとあります。

ではこの『氷』とはなにを指すのか?

それはそのまま『氷』を指すのではないでしょうか。
そのそも氷川神社とは、『氷』の『川』と書きます。

『川』とは、昔は川は池や沼といった水の溜まった場所を指す言葉であったらしいです。
つまり『見沼 = 川』と考えられます。

そして氷川三社が見沼を治水するために建てられたのではないかという説は、氷川女體神社のご紹介の際に出てきました。

それでは『氷』はどこにあったのか?

それもそのまま、見沼にあったのではないでしょうか。
厳密に言うと、そこらじゅうにあったのだと思われます。

気でも触れたかと思われたかもしれませんが、実はそれなりに根拠があるのです。

というのも、
地球は二万年前は氷河期の最盛期だったようです。

氷川女體神社にある見沼の変遷を示した看板にも書いてあったりします。

その氷河期の氷がある時期から徐々に溶けだして、海面が上昇していったとされています。
縄文海進というやつです。

さて、その氷河期の氷ですが、当然ぱぱっと溶けてなくなったわけではないでしょう。
長い時間をかけて、徐々に溶けていったはずです。
まだ氷の溶けきっていない時期に、埼玉の地に人類がいなかったと言い切れるでしょうか?

もし氷の溶けきっていない時代に人類がいたとして、彼らは寒さの中でどのように生き延びたのでしょうか。
人間は他の動物に比べて寒さに弱い生き物です。
ゆえに手に入れたのではないでしょうか。

『火』という叡智の始まりを。

そしてその『火』によって中氷川の氷が溶けて、その地は中川と呼ばれるようになった・・・。

そう考えるのは想像力が逞しすぎるかもしれません。
これはあくまでも超個人的な空想ですので、なんの根拠もありません。

ですが中山神社が火を手にしたことによる文明の発展を物語っているのだとすれば、崇神天皇の時代に創建されたという古さも頷けます。

境内にある八社を詳しく見ていくと・・・

八社のおさらい。

神明社
飯成(いなり)社
淡島社
疱瘡守護社
磐(いわい)神社
石上(いそのかみ)神社
竈(かまど)神社
稲田宮主社

神明社は天照大御神を祀っている神社。
中山神社の主祭神の大己貴命の叔母さんとなるので、境内に祀ってあるのも頷けます。

飯成社は『いなり』という読みから、おそらく稲荷神社のことかと。
そうなると倉稲魂命を祀っていると考えられます。
氷川三社は見沼の治水を行った、つまり稲作に関係の深い神社ですから、稲荷神社があるのは当然でしょう。
しかし稲荷が『鋳成(いなり)』という説は聞いたことがありますが、『飯成』の表記は珍しい。

淡島社は少彦名命を祀っている神社。
少彦名命は大国主命(=大己貴命)を援け、国土経営を行った神様ですから、境内に祀られているのも頷けます。

疱瘡守護社は稲背脛命(イナセハギノミコト)を祀っている神社のようです。
出雲大社の摂社である伊奈西波岐神社に祀られている神様のようです。
私も知らなかった神様なのですが、大国主命(=大己貴命)に関係の深い神様のようですので、祀られているのも頷けます。
しかし稲背脛命のお名前に『脛』の字があるのが気になります。
荒脛巾(荒脛)となにか関係があるのだろうか・・・?

また疱瘡とは天然痘、または梅毒の別名のようです。
稲背脛命が祀られている神社は伊奈西波岐神社であるのに、疱瘡守護社にしたのでしょうか?
かつて中川の地で疱瘡が蔓延したりしたのでしょうか。

磐(いわい・いわ)神社の御祭神は不明とさせて頂きます。
というのも、どうもこちらの磐神社は荒脛巾と関係のある神社のようなのです。
荒脛巾はもともと東北(個人的には北関東、もしくは現在の埼玉北部からと考えている)で祀られていた神様のようで、磐神社も東北にあるようです。

ただ荒脛巾の考察をしていくには当時の情勢をもっと勉強してからでないと上手くまとめられませんので、今回は深く触れずにおきます。
ですが磐神社もまた荒脛巾に関係があり、荒脛神社が鎮座する中山神社にあるのはおかしなことではないと考えられます。

また氷川女體神社の『磐船祭』も、もしかしたら荒脛巾と関係のあった祭事だったのかもしれません。

石上(いそのかみ)神社は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を祀っている神社。
総本社は石上神宮と考えらえるので、大国主命(=大己貴命)にとっては因縁のある神様とも考えられる。
とはいっても、その理屈なら天照大御神もそうなのだが。
なぜ石上神社が中山神社の境内にあるのかは考察の余地があるが、石上神宮をあまりよく分かっていないので、いずれ石上神宮を参拝した際に触れるかもしれない。

竈神社もまた東北に多い神社と思われる。
Google検索したところ、こちらが分かりやすいかと。
竈神社についても勉強不足のため触れないが、東北の神社に多い神社ということが気になるところである。

稲田宮主社は足摩乳命(あしなづちのみこと)のことらしい。
そうなると足摩乳命は大己貴命のおじいさんであるから、祀られているのも納得である。

荒脛神社がある

武蔵一宮氷川神社では参拝することのできなくなった荒脛巾神社だが、こちらの中山神社には荒脛神社というお名前で鎮座している。

荒脛巾木と荒脛は同じと考えられる。

こちらの荒脛神社といい、八社の磐神社と竈神社といい、中山神社はどうも東北地方と縁があるように思える。
荒脛巾という神様(断定はできない)を知っていく上で、こちらの中山神社は何かを教えてくれるのではないかと考えている。

中山(中氷川)神社を参拝して

ここまで読んで頂いた方の中には、中山神社に興味を持たれた方もいるかもしれない。
それほどこちらの中山神社には魅力がある。

また中山神社は荒脛巾についても興味を持たせてくれる。

氷川三社、氷川神社という大きな意味と役割を持つ神社になぜ荒脛巾が祀られているのか?
そのそも荒脛巾とは何なのか?

それを知るには、氷川三社以北の神社を実際に参拝してみる必要がある。
実際に参拝しなくても東北の神社を調べる手段はいくつかあるが、やはり実際に参拝してみないことには閃きが降りてこないのです。

最後に、
中山神社は非常に興味深い神社である。

が、
それだけが魅力の神社ではない。

境内はいつもきれいに保たれていて、居心地のよい神社です。

参拝されることがあれば、中山神社の持つ雰囲気をぜひ味わって頂きたい。

次回は中山神社の鎮火祭のご紹介です。

氷川三社に興味のある方はこちらをクリックしてください。
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