青春18きっぷでめぐる鹿島神宮と香取神宮⑦ 鹿島神宮と香取神宮を考察する

今回の目次

青春18きっぷでめぐる鹿島神宮と香取神宮⑦ 鹿島神宮と香取神宮を考察する

鹿島神宮 御祭神
武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

香取神宮 御祭神
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)

息栖神社
主祭神
岐神(くなどのかみ)
相殿神
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)
住吉三神

参拝できていないので写真はありません。

さて、
鹿島神宮と香取神宮に参拝させて頂いてからずいぶんと時間が経ってしまいました。

それというのも、鹿島神宮と香取神宮について考える上で、数冊の書籍を読んでいたからです。
実際に自分が参拝して、そこで直感したことを綴ろうと思ったのですが、この機会に鹿島神宮や香取神宮、そしてそれぞれの御祭神についてよく知ろうと思い立ち(鹿島立ち?)、読むと眠くなるような書籍を数冊、なんとか読み終えました。

それらの書籍を読みこんだ結果!

余計にわけが分からなくなりました。。。

といったところで、鹿島神宮と香取神宮、そしてそれぞれの御祭神について考察です。

また、考察する上で、やはり鹿島神宮と香取神宮と並び東国三社と称される息栖神社との関連も欠かせないことが分かりましたので、息栖神社の御祭神も含めて考察を進めていきたいと思います。


武甕槌大神の記述は鹿島神宮のホームページ記載のままです。
当考察では武甕槌大神と記述します。


この考察は超個人的な考察です。書籍等を参考にしておりますが、どこまでも個人的な考察であり、想像とか直感に頼る部分も多々あります。
よって神社に詳しくない方は鵜呑みにしないでください。
また、神社に詳しい方は温かい目でご覧ください。




鹿島神宮と香取神宮の御祭神について

鹿島神宮の武甕槌大神と、香取神宮の経津主大神。
どちらの神様もたいへん有名な神様です。

とくに武甕槌大神のお名前は、神社や御祭神に興味のない方でも耳にしたことがあるかと思います。

鹿島神宮の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の基本情報

鹿島神宮 御祭神
武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

香取神宮 御祭神
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)

武甕槌大神も経津主大神も天津神である

どちらの神様も天津神、つまり高天原の神様とされています。

高天原のリーダーとして有名なのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。
(もっとも断言はできませんけど)

武甕槌大神も経津主大神も、古事記や日本書紀での立ち位置は、天照大御神の指揮下にあるようです。
天照大御神の指示のもと武甕槌大神は『国譲り』(後述)へ派遣されたことから、両者の関係性が窺えます。

さて、
天津神の反対が国津神です。
国津神はもともと現在の日本の国土(芦原中つ国)にいらした神様を指します。

国津神の筆頭が出雲大社に現在祀られている大国主命(おおくにぬしのみこと)と考えられています。

その大国主命こそ、『国譲り』の際に武甕槌大神に迫られて、国(出雲)を譲った神様だったりします。
もっとも国譲りの可否を伝えたのは大国主命の御子神とされる事代主命(ことしろぬしのみこと)ですけどね。

武甕槌大神も経津主大神も『武』を象徴する神様である

一般的にどちらの神様も、『武』のイメージが強いのではないでしょうか。

その理由として、

①『国譲り』を成功させた神様だから。
→話し合いで『国譲り』が穏便に収まるはずがない?

②『国譲り』の際、武甕槌大神が大国主命の御子神とされる建御名方命(たけみなかたのみこと)を圧倒したから。
→敗れた建御名方命は諏訪に逃げて、諏訪大社の御祭神になったのだとか。

③鹿島神宮が蝦夷(まつろわぬ民)に対する前線基地だから。
→ゆえに香取神宮の本殿は北を向いているという説があるそうです。
(北に住まうまつろわぬ民を威嚇している?)

④どちらも『刀』の神様だから。(後述)
→香取神宮の経津主大神は『刀』が神格化した神様とされています。
また鹿島神宮の武甕槌大神も『刀』の神様とする説があるそうです。

武甕槌大神も経津主大神と『国譲り』神話

『国譲り』とは、ざっくりマンデー並にざっくり述べますと、

高天原の天津神(朝廷側)が日本の国土を統治するために、芦原中つ国の国津神に支配している土地を譲るように迫った逸話のことです。

国を譲る、とありますが、
土地を略奪・侵略したと考えても差し支えないと思われます。
(※個人の感想です)

もっとも、
天穂日命(あめのほひのみこと)の活躍により、ある程度穏やかに国を譲る形になった、という可能性もあるかもしれません。

天穂日命と国譲りに関する考察はこちらをクリックしてください。

さて、
この有名な『国譲り』ですが・・・

古事記と日本書紀で登場する神様が違う!

そもそも古事記と日本書紀の違いとは?

よくある説明が、

古事記は国向け。
→天皇の統治の正当性をアピールするためのもの。

日本書紀は国向け。
国外に日本という国をアピールするためのもの。

といったものがあります。
もちろん私より歴史とかに詳しい方の考えなので、この考え方もありなのだと思います。

ですが個人的には、が指し示すものは、下記のとおりなのではないかと考えています。

古事記は天皇家が読む自分たちの歴史書(内)。
なので外に出る書物ではなかったのでは?

日本書紀は対外的な公文書(外)。
外とは、他の国(統治しきれていない国々、例えば蝦夷とか。もちろん現在の意味の海外も含む)のことではないのでしょうか。他の国に対して天皇家が日本を統治する正当性を示すためのものが、日本書紀なのでは?

なぜ私がこのように考えるかの理由はまたの機会にでも。

古事記の『国譲り』は武甕槌大神が主神

主神として武甕槌大神が、そして副神として天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が登場します。

天鳥船神といえば、鹿島神宮と香取神宮と並び東国三社と称される息栖神社の相殿神です。
主祭神ではないんですよね・・・。
なぜでしょう?

ちなみに、
建御名方命(たけみなかたのみこと)は古事記にのみ登場する。

日本書紀の『国譲り』は経津主大神が主神

主神として経津主大神が、そして副神として武甕槌大神が登場します。

なぜ古事記には経津主大神が登場しないのか?
それは一説によると、物部氏の崇める神であった経津主大神を古事記に登場させたくない理由があったからだとか。
(このあたりはよく分かっていませんので割愛します)

古事記と日本書紀の『国譲り』の描かれ方の違いからも、武甕槌大神と経津主大神の扱われ方の違いが見えてきます。

『国譲り』は交渉で成し遂げられたのか?

『国譲り』は武力によって成されたのか、それとも交渉によって成されたのか。

これが意外と気になります。
というのも、鹿島神宮に関する書籍のなかに、

「『国譲り』は交渉によって成されたのではないだろうか」

といった考えも記されていたのです。
その著者曰く、

「武力では出雲が勝っていたと考えられる」

とのこと。
武力では出雲が勝っていた。
これは考えられなくもありません。
出雲は一説によると現在の九州北部から奈良のあたりまでを支配する、広大な国であったそうですから。
また、大国主命は多くのお名前を持つ神様として有名ですが、そのお名前の一つに『八千矛神(やちほこのかみ)』というものがあります。
その名のとおり、多くの矛を持つ神様だったのでしょう。

さて、
『国譲り』は交渉によって成されたのでしょうか?

個人的にはこの説を支持します。
しかし、武甕槌大神だけの力で、『国譲り』が交渉で成されたとは思いません。

『国譲り』が交渉で成された陰には、やはり天穂日命(あめのほひのみこと)の活躍があったのではないでしょうか。

『国譲り』から見る鹿島神宮と香取神宮の摂末社

『国譲り』が交渉によって成されたにしろ、武力によって成されたにしろ、万事何のしがらみもなく終えたとは考えにくいです。

勝者となった天津神(武甕槌大神や経津主大神)に、敗者となった国津神(大国主命や建御名方命)は完全に服従したのでしょうか?

そのことを考える一端として、鹿島神宮と香取神宮の摂末社の立ち位置に興味深いものがあります。

こちらは鹿島神宮の大国社
御祭神はもちろん大国主命。
『国譲り』を迫られた神様です。

こちらの大国社ですが、鹿島神宮の社では珍しく南面しています。
(一般的な神社としては南面しているのは普通だが、鹿島神宮の社は南を向いている社がほぼない。他は御厨社ぐらい)

見方によっては、本殿や奥宮と向き合っていると見れなくもありません。

そしてこちらは香取神宮の楼門の手前にある諏訪神社
御祭神はもちろん建御名方命(たけみなかたのみこと)です。
『国譲り』の際に武甕槌大神に大敗したと記述されている神様です。

こちらの諏訪神社は、香取神宮の社では珍しく北寄りを向いています。
(香取神宮の奥宮はほぼ北向き。狐坐山神社もやや北寄り)

見方によっては、本殿と向き合っていると見れなくもありません。

これはおそらく何かしらの意図があるかと思われます。
神社の関係者が社を建てる際に、向きを意識しないはずがありませんから。
しかしどのような意図があるかは現時点では不明です。

『国譲り』と息栖神社の関係性

息栖神社 御祭神

主祭神
岐神(くなどのかみ)

相殿神
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)
住吉三神

さて、
古事記の『国譲り』では、主神が武甕槌大神であり、副神が天鳥船神(あめのとりふねのかみ)です。

天鳥船神ですが、神が乗って天空を移動する舟のことらしいです。
(舟が神格化された神様? そうだとすれば、なぜ副神が舟なのでしょう?)

また一説によると、天穂日命(あめのほひのみこと)の御子神である武夷鳥命(たけひなとりのみこと)と同一視されることもあるのだとか。

息栖神社の主祭神は岐神(くなどのかみ)

さて、
東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)の御祭神は、どの神様も『国譲り』に登場する神様です。
(古事記と日本書紀で登場する神様に違いはあるけど)

しかし、
なぜか天鳥船神は息栖神社の相殿神なのです。
(住吉三神は海上交通の神。今回の考察では触れません)

そう、
息栖神社の主祭神は岐神(くなどのかみ)となっています。

岐神(くなどのかみ)とは?

コトバンクの説明が興味深いので引用させて頂きます。

道の分岐点で,旅人の道中の安全をはかる神。『日本書紀』の神話に登場し,伊奘諾尊が黄泉の国で雷神に追いかけられたときに杖を投げ,「これ以上来るな」といったので,その杖をクナドノカミと名づけたとある。道饗祭の祝詞では,道の分岐点で魔物を防ぐ「八衢ひこ,八衢ひめ,くなど」のことが語られている。クナドノサエノカミともいう。クナドは「来るなという入り口」の意。『古事記』では船戸神(フナドノカミ)と呼ばれるが,これだと「通過するなという入り口」の意となる。サエノカミは「塞の神」。クナド,フナド両神も,外部から邪霊が侵入するのを防ぐ神で,のちに,これらはすべて道祖神として信仰を集めた。
コトバンクより引用)

上記のコトバンクの説明にあるように、岐神(くなどのかみ)は旅の道中の安全をはかる神様のようです。

そして私が読んだ鹿島神宮に関する書籍のなかには、

「(『国譲り』の後)大国主命が(武甕槌大神に)岐神を二神さずける

との記述が日本書紀にある、とありました。

岐神(くなどのかみ)は旅の道中の安全をはかる様です。
この場合の旅の道中とは、武甕槌大神が東国(鹿島神宮)へ向かう道中と考えられます。

つまり岐神(くなどのかみ)は、武甕槌大神を東国へと導いた神様なのではないでしょうか?
(もちろん鹽土老翁(しおつちのおきな)の先導により東国へ向かった可能性もある)
鹽土老翁(しおつちのおきな)の考察はこちらをクリックしてください。

ゆえに、息栖神社では天鳥船神(あめのとりふねのかみ)ではなく、岐神(くなどのかみ)が「主祭神として祀られているのではないでしょうか。

【追記】
その後、上総国一之宮玉前神社に参拝させて頂いた際、休憩所にあった全国一之宮一覧を見ていたところ、出雲大社の東側(現在の鳥取)に倭文神社があることを発見しました。
現在の鳥取県にある伯耆国(ほうきのくに)一之宮、倭文神社の位置はこちら。

十分、出雲の治めていた領内だと思われます。
なんの確証もありませんが、もしかしたら大国主命が岐神(くなどのかみ)として建葉槌命を武甕槌大神に遣わしたのかもしれません。

そしてそう考えると、常日頃から抱いていたある疑問に答えが出るのかもしれません。

武甕槌大神は『国譲り』の後、東国に向かった?

古代の時系列は正直分かりません。

しかし、岐神(くなどのかみ)が東国三社の一つの息栖神社の主祭神であることから、『国譲り』の後に、武甕槌大神は東国の地へ向かったと考えられるのではないでしょうか?

鹿島神宮は3000年(2600年?)の歴史を持つとされています。
もっとも、実際に朝廷の支配下に入ったのは紀元後になってからだと思われますけど。

しかし鹿島神宮の創建(武甕槌大神が祀られた時期)がいつにしろ、武甕槌大神は『国譲り』を成した後に東国に向かわれたのかもしれません。

そうなると武甕槌大神が甕星香々背男(みかぼしかがせお)と戦ったのも、『国譲り』より後のことと考えられるので、甕星香々背男に関する考察も前に進みそうです。
(個人的な話で恐縮ですが、『国譲り』と武甕槌大神の東国征服の時系列をはっきりとしておきたいのです)

ちなみに、
岐神(くなどのかみ)は香取神宮の六所神社に祀られています。

そして私の知る限り、鹿島神宮には祀られていません。
この違いはなんなのでしょうか?

武甕槌大神についての考察

どちらの神様もたいへん有名な神様です。
そして一説には、武甕槌大神と経津主大神は同一の神様ではないかといった考えもあるようです。
つまり鹿島神宮と香取神宮は同じ神様を祀っているのだ、といった考え方です。

しかし、
個人的にはやはり別々の神様と考えるべきかと思われます。

武甕槌大神という神様

武甕槌大神

【別表記】
建御雷神(たけみかづちのかみ)
建布都神(たけふつのかみ)
豊布都神(とよふつのかみ) 等

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の死の原因となった軻遇突智神(かぐつちのかみ)を十拳剣(とつかのつるぎ=天尾羽張神(あめのおはばりのかみ))で斬った際、十拳剣についた血が神聖な岩石群ついた際お生まれになった神々の一柱とされています。

さて、
伊弉諾尊と伊弉冉尊は『国産み』の神様として有名です。
そして上の逸話は、国産みを擬人化したといえるのです。

軻遇突智神(かぐつちのかみ)は火山の噴火を示しているとされています。

そして火山の噴火からお生まれになった武甕槌大神の神格として連想されるものとして、

溶岩、つまり鉱物
→遇突智神の血が付いた岩石(=溶岩)からお生まれになった神は鉱物の神である。つまり武器(=刀)の神である。

ちょっと強引ですけどね。

火山を鎮めた神様
→武甕槌大神は建御雷神とも記される神様。そのお名前のとおり雷の神様。そして雷といえば雨であり、雨が降れば溶岩も冷えて固まる。
つまり鎮圧する神様と考えられます。

また、建御雷神というお名前から雷が連想され、水の神様であるとも考えられる。
須佐之男命(すさのおのみこと)もそうですが、有名な神様は『水』と関係のある神様が多い気がします。
(水は生活に必須ですからね!)

『武』の神様と見られがちな武甕槌大神ですが、原初の姿は『水』を願う人々の思いから生まれた神様だったのかもしれません。

武甕槌大神のお父さんは『刀』の神様

遇突智神(かぐつちのかみ)を斬った十拳剣(とつかのつるぎ)ですが、天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)という神様とされています。

そしてこちらの天尾羽張神ですが、もともと天照大御神から『国譲り』を任命された神様でもあります。
ですが自分の代わりに、御子神である武甕槌大神を差し出したのだとか。

・・・。
お父さんが剣の神様ならば、御子神である武甕槌大神もまた剣の神様と考えられます、よね。

ただその場合の神格は雷の神様(水と雨)である建御雷神とは違ってくるように思うのは私だけですかね?

武甕槌大神の神格

建布都神(たけふつのかみ)・豊布都神(とよふつのかみ)は武甕槌大神の別表記とされています。

お名前の『フツ』という音が、剣の切り裂く音であることから、『刀』の神様とも考えられているようです。

また、建布都神(たけふつのかみ)・豊布都神(とよふつのかみ)というお名前から、経津主大神と同じ神様だと考えられているのだと思われます。

もっとも、
神様という存在は数多くあった神様のお名前が習合して、現在の形に落ち着いたものと考えられます。
(神仏習合が最たる例です)

ですので個人的には、武甕槌大神もまた、各国(大和朝廷以外の国々)で信仰されていた神(のような存在)を習合していき、現在のお姿になったのだと考えています。

だから武甕槌大神が雷の神様だったり『刀』の神様だったりするのだと思われます。

武甕槌大神は藤原(中臣)氏の崇めた神様

なのだとか。

だから鹿島神宮の近くに鎌足神社があるんですね。

また鹿島神宮の摂社の坂戸神社の御祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫が藤原鎌足だそうです。

また、
一説によると鹿島神宮が東国の端にあるのは、蘇我氏の勢力に押された中臣氏が、一時的に東国に身を寄せたからなのだとか・・・。

そして武甕槌大神が、後に朝廷の権力を手に入れた中臣(藤原)氏の氏神であることを考えれば、古事記や日本書紀において武甕槌大神が主要なポジションにいることにも頷けます。

経津主大神についての考察

経津主大神という神様

経津主大神

【別表記】
斎主神(いわいぬしのかみ)
伊波比主神(いわいぬしのかみ)

経津主大神もまた、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が遇突智神(かぐつちのかみ)を斬ったことによりお生まれになった神様です。

武甕槌大神と相違する点は、武甕槌大神が遇突智神の血が岩石に付いたことでお生まれになった神様とされているのに対して、

経津主大神は遇突智神の血が岩石に付いたことで、まずは磐裂神(いわさくかみ)と根裂神(ねさくかみ)が生まれ、その子の磐筒男命(いわつつのおのみこと)と磐箇女命(いわつつのめのみこと) が生まれ、そして経津主大神が生まれたのだそうです。

ちなみに香取神宮の摂社の匝瑳神社(そうさじんじゃ)には経津主大神のお父さんとお母さんである、磐筒男命(いわつつのおのみこと)と磐箇女命(いわつつのめのみこと)が祀られています。

ちなみに私の知り限り、鹿島神宮には武甕槌大神の父神とされる天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)は祀られていません。
この差はどうして生まれたのでしょうか?

経津主大神の神格

『フツ』という音が、剣の切り裂く音であることから、『刀』の神様とも考えられているようです。
武甕槌大神の別表記とされている建布都神(たけふつのかみ)・豊布都神(とよふつのかみ)と同様の考え方ですね。

ゆえに、
経津主大神は『刀』が神格化された神様と考えられ、『武』の神様と考えられているのだと思われます。

そしてまた、
経津主大神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ)と同じ神様とされることもあるようです。

経津主大神と布都御魂大神、伊波比主神(いわいぬしのかみ)の関係性

布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は石上神宮の御祭神であり、刀が神格化された神様とされています。

一説には武甕槌大神と同一視されることもあるようです。
それというのも、神武天皇の東征の折、神武天皇が危機に陥った際に武甕槌大神が神武天皇に布都御魂(剣)を与えたとのことで、危機を乗り切ったとのことです。
(手渡したのは高倉下(たかくらじ)ですけどね)

さて、
その布都御魂大神と経津主大神が同一視されるのは、どちらも『刀』の神様であるからだと考えられます。

そしてそれ以外の理由として、布都御魂大神も経津主大神も物部氏が崇めた氏神だからと考えられます。

物部氏は布都御魂大神を祀る石上神宮を氏神としていたらしく、また、軍事を担っていたとされる物部氏は、石上神宮に大量の武具を格納していたとされています。

だから布都御魂大神も経津主大神が同一視されるのか?

いえ、どうやらそうではないようです。

それというのも、
物部氏は一方では神事を司る(?)伊波比主神(いわいぬしのかみ)を祀っていたそうです。

その伊波比主神を祀った神社こそ、香取神宮なのだとされているそうです。

つまり、
もともとの香取神宮の御祭神は伊波比主神であり、経津主大神ではなかったと考えられます。

あくまでも物部氏としては、石上神宮に布都御魂大神を祀り、香取神宮には伊波比主神を祀っていたのかもしれません。

そうなると、
伊波比主神と経津主大神は違う神様だったのではないでしょうか?

それではなぜ現在の香取神宮の御祭神が経津主大神なのかというと、それは物部氏が蘇我氏に敗れ、物部氏が歴史から姿を消していったことに端を発します。

物部氏が歴史から姿を消していくなかで、徐々に力を増していった藤原(中臣)氏の崇める神に変わっていってしまったのではないでしょうか?

そうしていつの間にか、香取神宮の御祭神は伊波比主神から経津主大神となった。

もしそうだと仮定すると、
なるほど、武甕槌大神と経津主大神は同じ神様だといえなくもありません
(どちらも藤原氏の崇める神ということになるから)

このようにして現代では、
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、そして伊波比主神(いわいぬしのかみ)が同じ神様といえる状況になってしまったのかもしれません。
(※個人の考察です!)

鹿島神宮と香取神宮から天照大御神との関係性を考察する

たいへん長くなっていますので、こちらが最後の考察です。

実際に鹿島神宮と香取神宮に参拝させて頂いた素直な感想として、

天照大御神がほとんど祀られていないな

といったものがあります。

かつて伊勢の神宮以外に『神宮』と称していたのは、鹿島神宮と香取神宮だけだったそうです。
また、御祭神もどちらも天津神であり、天照大御神の一大プロジェクト(?)の『国譲り』に深く関わっている神様でもあります。

そのような鹿島神宮と香取神宮では天照大御神がしっかりと祀られているはずだ!と考えるのは私の知識がまだまだ不足しているからでしょうか?
(もしくは直感タイプなので)

実際に、現在の鹿島神宮では伊勢神社があります。
御祭神はもちろん天照大御神です。

こちらの伊勢神社が鎮座されている場所は、現代だと大鳥居の右手の駐車場の、さらに奥にあります。
(地図には載っていない)

現代だと生活道路の合間のわずかな空間にありますが、かつては鬱蒼と茂る鎮守の森のなかにあったのだと推測されます。
また場所も、本殿よりもさらに奥です。
これは北から攻めてくる外敵から、もっとも遠い位置にあるとも考えられます。

現代だと伊勢神社は寂れた印象を受けますが、かつては本殿よりも大切にされていた可能性があります。

鹿島神宮はまだ天照大御神を祀っています。
しかし、
香取神宮には天照大御神が祀られていないのです。
(もしかしたら本殿から離れた場所にある可能性もある。もっとも離れすぎているのもおかしな話ですけど)

なぜ香取神宮では天照大御神が祀られていないんですかね?

むむ、謎です。

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