今回の目次
青春18きっぷでめぐる建葉槌命④ 建葉槌命と甕星香々背男について考察する
念願だった鹿島神宮に参拝させて頂いたことで、高房社の御祭神である建葉槌命(たけはづちのみこと)という神様を知りました。
建葉槌命。
あの『国譲り』を成功させたとされる『武』の神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)でさえ鎮圧しきれなかったとされる北のまつろわぬ民、甕星香々背男(みかぼしかがせお)を鎮圧した神様、建葉槌命。
そのような偉業を成したとさえる建葉槌命とは、いったいどのような神様なのか?
俄然興味が出てきた私は、勢いのままに建葉槌命を祀る大甕神社と静神社に参拝させて頂きました。
そしてこの記事を綴っている今日に至るまで、建葉槌命と甕星香々背男という神様について考えをめぐらし、書籍などで知識の補完も行ってきました。
その結果、
知れば知るほど分からなくなりました。
ですので、
現時点で分かっていることを、推測を交えて考察していきたいと思います。
※
この考察は超個人的な考察です。書籍等を参考にしておりますが、どこまでも個人的な考察であり、想像とか直感に頼る部分も多々あります。
よって神社に詳しくない方は鵜呑みにしないでください。
また、神社に詳しい方は温かい目でご覧ください。
建葉槌命と甕星香々背男の基本情報
建葉槌命と甕星香々背男を少しでも理解できるように、現在の茨城県にある大甕神社と静神社に参拝させて頂きました。
大甕神社 御祭神
建葉槌命(たけはづちのみこと)
甕星香々背男(みかぼしかがせお)
静神社御祭神
主祭神
建葉槌命(たけはづちのみこと)
相殿神
手力雄神(たぢからおのかみ)
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
思兼神(おもいかねのかみ)
建葉槌命(たけはづちのみこと)について
あまり情報を集められませんでしたので、正確な情報ではありませんのでご注意を!
(書籍及びインターネットで集めた情報です)
【別名(同一と思われる神様)】
天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)
天羽雷命(あめのはづちのみこと)
倭文神(しとりのかみ・しずりのかみ)
天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)や天羽雷命(あめのはづちのみこと)の表記は古語拾遺に見られるとのこと。
建葉槌命は日本書紀に見られるとのこと。
また、
倭文(しとり・しずり・しず)とは『しずおり』が変化したものだとそうです。
コトバンクによると、
《上代は「しつ」》カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物。綾布(あやぬの)。倭文布(しずぬの)。倭文織(しずお)り。しずり。しどり。
「ちはやぶる神の社(やしろ)に照る鏡―に取り添へ」〈万・四〇一一〉
[補説]異国の文様に対する意で、「倭文」の字を当てたという。
(コトバンクより引用)
異国の文様に対する意、とあることから、日本の独特の織物のようです。
甕星香々背男(みかぼしかがせお)について
あまり情報を集められませんでしたので、正確な情報ではありませんのでご注意を!
(書籍及びインターネットで集めた情報です)
【別名(同一と思われる神様)】
天津甕星(あまつみかぼし)
天香香背男(あめのかがせお)
星神香香背男(ほしのかがせお)
香香背男(かがせお)
甕星香々背男(みかぼしかがせお)の別表記はいくつかあるようですが、当サイトでは大甕神社の表記が甕星香々背男ですので、甕星香々背男と表記させて頂きます。
さて、
こちらの甕星香々背男ですが、ほぼ間違いなく国津神と思われます。
というより、北のまつろわぬ民と表記したほうが適切ですかね。
天津甕星と表記され、日本書紀では天津神とされていたりもするようですが、これは日本書紀の制作側の意図によるものかと思われます。
だって天津神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と土地をめぐって敵対していたのなら、どう考えても国津神ですよね。
また、
甕星香々背男とお名前に『星』がつくのは、いろいろな理由が考えられます。
①甕星香々背男は金星を指しているのだとか。
→金星を神格化した神様なんですかね?
確かに常陸は『日立ち上る』地ですから、同様に金星も光輝いて(香々やいて)見えたことでしょう。
②星は悪いイメージ。
→時期によっては星や月は悪いイメージがあったそうです。
夜は暗くて怖いですからね。とくに明りのなかった時代は。
また、夜は太陽(=天照大御神)がお隠れになる時間であり、不吉だったのかもしれません。
となると、朝廷側(天津神側)が悪いイメージをつけるために、香々背男という名前に甕星をつけて呼んだのかもしれません。
建葉槌命(たけはづちのみこと)の神格は?
『建』という字(音)は『武』であり、武葉槌命とも表記できるのだとか。
よって建葉槌命は『武』の神様であるとも考えられます。
ゆえに、
その『武』をもって甕星香々背男(みかぼしかがせお)を鎮圧したとも考えられます。
一方、
建葉槌命は倭文(しとり・しずり・しず=日本独特の織物)の神様でもあるようです。
現代の感覚、というか、個人の感覚を述べるならば、織物の神様が『武』に優れているとは思えないんですけどね。
それも武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)でさえ鎮圧しきれなかった甕星香々背男(みかぼしかがせお)を鎮圧できる『武』を、織物の神様が持っていたとは想像できません。
また、
建葉槌命は女神であるともされています。
それはおそらく、機織り(織物)が女性の行うことだったからではないでしょうか。
(確証はありませんけど)
それに機織りといえば織姫ですからね。
(建葉槌命を祀る静神社の境内にある織姫の像)
一方で、
建葉槌命と同一視される神様のお名前が天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)であることから、男神とも考えられます。
しかし静神社の本殿の千木を見ると、地面に対して平行に削られていますので、女神と考えられます。
(もっとも千木の形は絶対の基準ではないですけどね)
そうなると、建葉槌命と天羽槌雄神は別の神様なのでしょうか?
そしてやはり建葉槌命は女神、というのが正しいのでしょうか・・・。
しかしそうなると、
女神である建葉槌命が甕星香々背男(みかぼしかがせお)と壮絶な戦いを繰り広げた様子が想像できません・・・。
(偏見ですかね)
もっとも、
神功皇后のように女性が先陣を切って軍を率いることもあったようなので、建葉槌命が女神であったとしても軍を率いた可能性はあります。
ただ、
機織りの女神様が軍を率いる様子は・・・
やはり想像が難しい。
甕星香々背男(みかぼしかがせお)の神格は?
ほぼ間違いなく『武』に優れた神様だったと思われます。
そもそもまつろわぬ民の一部族の長(もしくは代々首領が冠する名前)だったと推測できます。
部族の長が『武』に優れているのは当たり前と考えられます。
そう、あの武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)でさえ鎮圧できなかったほどに。
また、
甕星(みかぼし)の名が朝廷側の悪意(?)によってつけられたのではなかったとすれば、星に関係のある神様だったと考えられます。
『星』に関係のある神様といえば、占い(祭祀)に長けた神様。
もしくは、
航海術に長けた神様であったと考えられます。
夜の航海は星を見て進路を確認したとされていますから。
甕星香々背男がどのような神様だったのか、甕星が朝廷側によってつけられたのかは分かりません。
ですが、
たいへん『武』に優れた神様であったことは間違いないかと思われます。
建葉槌命は甕星香々背男を鎮圧できたのか?
甕星香々背男はあの武甕槌大神でさえ鎮圧できなかった悪神(あえてこのように記述します)。
その甕星香々背男を建葉槌命が鎮圧することなどできたのでしょうか?
個人の感覚としては、無理だよな、といった感じです。
武甕槌大神が鎮圧できなかった(もしかしたら経津主大神も)相手を、建葉槌命が鎮圧できるとは考えにくいです。
しかし、
どのような形であれ建葉槌命は甕星香々背男を鎮圧したのです。
そうでなければ、建葉槌命が甕星香々背男を鎮圧したといったくだりが、日本書紀に記述されることはないでしょう。
また、
鹿島神宮に参拝する際に、本殿よりも先に高房社(御祭神:建葉槌命)に参拝するといったルールは生まれなかったことでしょう。
(ちなみに香取神宮の近くにも高房社はあります)
それでは、
如何にして建葉槌命は甕星香々背男を鎮圧したのか?
超個人的に考察してみたいと思います。
建葉槌命と甕星香々背男の位置関係
現在の大甕神社と静神社の位置関係です。
現在の大甕神社の御祭神は建葉槌命が主祭神の色が濃く、甕星香々背男は境内に一緒に祀られているといった様子です。
しかし当時は、現在の大甕神社のある辺りが甕星香々背男の領地だったと考えられます。
なぜなら、
建葉槌命は静神社に陣を張ったらしいからです。
このことから建葉槌命の陣地は静神社であり、大甕神社の辺りに領地を持つ甕星香々背男と対峙したのだと考えられます。
ちなみに、現在でも静神社は小高い山にあり(山自体が境内と思われる)、大甕神社も小高い山の麓にあります。
さらに詳しく述べるなら、かつての大甕神社は古宮があった場所が示すように、現在の場所よりも山の中にあったはずです。
大甕神社と静神社。
お互いに小高い山にあります。
そして両者の間には平地が広がっています。
ちなみに筑波山も、筑波山の周囲は平地です。
筑波山に登ったことがある方は納得頂けると思うのですが、筑波山は天然の要塞だったと思われます。
こちらは筑波山の頂上からの周囲の様子。
360度周囲が見渡せるので外敵の発見も容易であり、なおかつ攻められにくい。
(たぶん)
さて、
静神社も大甕神社も筑波山に近い地形であったと考えられます。
ゆえに、
武甕槌大神が甕星香々背男を攻めきれなかったとも想像できます。
というのも、
武甕槌大神の強さは騎馬と武器(槍や矛などの長物)にあったと思うからです。
(※個人の勝手な想像です!)
そうだとすれば、
武甕槌大神が騎馬と鉄や銅製の武器があったとしても、樹々の茂る山の中では威力を十分に発揮できなかったのではないでしょうか。
ゆえに、山に陣取っていた甕星香々背男を攻めきれなかった・・・。
それに甕星香々背男は土地勘もありますからね。
といった想像も交えて、如何にして建葉槌命が甕星香々背男を鎮圧したのかを考察してみます。
建葉槌命が甕星香々背男を鎮圧した方法を超個人的に考察する
①建葉槌命も土地勘があった
建葉槌命は突然日本書紀に登場します。
そのことからも、朝廷側から見ればそれほど重要な神様ではなかったことや、主だった実績がなかったことが推測されます。
それではなぜ武甕槌大神から甕星香々背男の鎮圧を指示されたのか?
建葉槌命が『武』で武甕槌大神に勝るとは思えません。
それにも関わらず指名されたのであれば、土地勘があったからと考えられないでしょうか。
そう、
建葉槌命もまた、岐神(くなどのかみ)であったのではないでしょうか。
▶岐神(くなどのかみ)についてはこちらをクリックしてご覧ください。
建葉槌命は武甕槌大神を東国へ導いた、もしくは東国で導いた神様だったのではないでしょうか。
そうだと仮定すると、現在の茨城の山々の地形を熟知していた可能性が出てきます。当然、茨城の山中での戦い方も知っていたことでしょう。
建葉槌命は地の利があったからこそ甕星香々背男と戦えた。
といったことは・・・考えられなくもないかと。
②甕星香々背男包囲して攻めた
大甕神社(甕星香々背男)、静神社(建葉槌命)、鹿島神宮(武甕槌大神)の位置関係です。
この構図から、甕星香々背男を西と南から、もしくは海側からも包囲して攻めたことも考えられます。
さすがに二方向(三方向)から攻められては甕星香々背男もたまらないでしょう。
が、
この案は却下です。
なぜなら、
もしこのように包囲して甕星香々背男を鎮圧したのであれば、それは武甕槌大神の功績となるだろうからです。
これでは後世に建葉槌命の功績として残らないはずです。
③建葉槌命と甕星香々背男が結婚して和平を結んだ
建葉槌命は女神の可能性が高いと思われます。
政略結婚、的なやつです。
甕星香々背男は建葉槌命に鎮圧され、宿魂石に封じられたとされています。
そう、
これこそ建葉槌命と甕星香々背男の結婚を物語っているのではないでしょうか!(?)
というのも、
自由気ままに遊んでいた男性が結婚することで家庭に封じられる
ということはよくあること!
甕星香々背男もそうだったのではないでしょうか?
さて、
冗談っぽく思える説ですが、実は個人的には可能性があると思っています。
というのも、
現在の大甕神社は宿魂石の上に本殿が建てられていて、いかにも宿魂石を封じているといった様子です。
しかし、
そもそもかつての本殿は宿魂石の上になかったはずなんですよね。
本殿が宿魂石の上に移されたのは江戸時代のことで、その前まで本殿は現在の古宮の位置に鎮座されていたはずなのです。
こちらが現在の大甕神社と古宮の位置関係。
古宮は小高い山の上にあり、本殿や宿魂石を見下ろしている位置にあります。
そう、
建葉槌命(=本殿)は宿魂石をちょっと上から監視していたぐらいなのです。
そもそも宿魂石に悪神である甕星香々背男が封じられているならば、甕星香々背男を祀る社は祟りを鎮めるために、宿魂石の方向を向いているべきだと思うのです。
(社を通して祟りが鎮まるように祈るため)
しかし、
大甕神社の甕星香々背男社は宿魂石を向いていないんですよね。
(拝殿は宿魂石を向いている。ただし拝殿は建葉槌命のみを祀ると考えてもいいかもしれない)
宿魂石は下の写真のちょうど中央の奥あたりにあるのです。
甕星香々背男社は宿魂石と向いている方向がずれているのです。
むしろ甕星香々背男社は北寄りの方向を向いています。
これではむしろ、建葉槌命に協力して、北のまつろわぬ民を威嚇しているようではありませんか!
(軽い誘導尋問ですな)
また、
中国の古代幻想譚『封神演義』の『封神』とは、有能な人材を地方に封じて土地を治めさせることだとされています。
そのことから考えると、
甕星香々背男はまさに封神されたといえなくもありません。
まさに封じられた神様、ですね。
(奥さんの尻に敷かれた?)
④結婚はしなかったけれど、穏やかに交渉ができた
建葉槌命と甕星香々背男が結婚をしたなんて信じられない!
という場合に備えての説です。
さて、
建葉槌命という神様は機織り(織物)の神様とされています。
機織りの神様を、武甕槌大神でさえ鎮圧しきれない甕星香々背男に差し向けるなどといったことがあり得るでしょうか?
しかし結果として、建葉槌命は甕星香々背男を鎮圧したとされています。
それでは機織りの神様がどのようにして甕星香々背男を鎮圧したのか。
それはおそらく、機織りを含む文化が交渉の材料となったのではないでしょうか。
勝手な想像ですが、
甕星香々背男の一族を含め、北のまつろわぬ民は文化水準は低かったと思われます。
身にまとっていたものも、樹皮や動物の皮だったのではないでしょうか。
そんな甕星香々背男の前に、美しい倭文(しず)をまとった美しい女神が現れたら、どうでしょうか?
(美しい女神の部分は勝手な想像です)
天津神は、
国津神に比べ優れた技術や進んだ文化を持っていたはずです。
それこそ稲作を広めたり、治水や製鉄を効率的に行ったりして、日本を統治していったのではないでしょうか。
(武力だけで統治はできないでしょうから)
そして天津神から見た国津神、まつろわぬ民とされた原住民は、果たしていつまでも天津神に敵意を持ち続けたのでしょうか。
天津神と戦うなかで、その技術や文化に興味や憧れを抱いたりしたのではないでしょうか。
そのことに気がついた建葉槌命は、倭文という技術と文化を武器に、武甕槌大神でさえ鎮圧できなかった甕星香々背男を鎮圧せしめたのかもしれません。
(単純に倭文をまとった建葉槌命に甕星香々背男が惚れたということも考え得る!)
建葉槌命と甕星香々背男の関係性
さて、
長くなってしまいましたが、以上が現時点での建葉槌命と甕星香々背男に関する考察です。
内容は多分に私の想像(ファンタジー的な要素)も含まれますが、実際に参拝した見たものと、数冊の書籍で得た知識を交えての考察ですので、必ずしも大暴投というわけではないかと思われます。
私は古代史の専門家ではありませんし、優れた教養があるわけではありません。
ですので、
実際に見たものをもとに、あとは想像してみるだけです。
自分よりも格段に優れた技術と文化。
もしそれを目にすることがあれば、私だったら手を取り合っていきたいな、とか思うのです。
(相手が美人ならなおよし!)