今回の目次
妻に恋する妻恋神社に参拝
御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
弟橘媛命(おとたちばなひめみこと)
今回の週末ただたかは『恋』がテーマです。
こちらは柳森神社の鯉。
さて、
神田明神の参拝を終えたので、湯島天神にも参拝していこうと歩いていると、ふいに神社の気配が。
道中、偶然にもこちらの妻恋神社をお見かけしましたので参拝させて頂きました。
こちらの妻恋神社ですが、江戸時代には妻恋稲荷大明神と呼ばれていたそうです。
少なくとも江戸時代から妻恋神社だったんですね。
御祭神の日本武尊と弟橘媛命(おとたちばなひめみこと)がご夫婦の神様です。
そしてこちらの二柱の神様にはドラマチックな(悲恋?)逸話があります(後述)。
ゆえに『妻恋』神社なのでしょうか?
また、恋愛成就の神社なのか、私が参拝したときは大学生ぐらいの女の子たちが参拝してました。
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妻恋神社へのアクセス
神田明神から徒歩5分ぐらい
途中の清水坂下の交差点には三件のラーメン屋がある。
恋に恋する妻恋神社に参拝
鳥居です。
大通りから外れているので、都内なのに静かなところです。
鳥居をくぐってすぐ右手に由緒書きがあります。
日本武尊は、「古事記」や「日本書紀」に登場。父王である景行天皇より命ぜられ、体格もよく武力に優れていた日本武尊は、日本(まだ日本とは呼んでいなかったが)の全国統一を目指して、西や東を平定していった。
東方十二道の荒ぶる神や賊の平定のため東へと旅だち、東京湾を走水の渡り(現横須賀市)から千葉に向けて船で渡る時、途中暴風雨に遭い、船はもてあそばれ沈みそうになった。
同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(焼津で自分を守ってくれた尊への思いが込められている)と歌を詠んで海に身を投じた。
海は鎮まり、尊は房総に上陸ができ、東国を平定し、大いに勲功をあげることができた。帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。
当神社はその時の行宮(野営陣地)の跡と言われてる。
「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」というようになったとも。また、「ユシマ」は「聖なる水際の地」という意味があるともいわれ、この地は早くから開かれ、低地では稲作が行われており、そこで、五穀の神の稲荷が祭られ、妻恋稲荷となった。
倉稲魂命は別名は御食津神で三狐神に通じキツネに結びつく。
(妻恋神社ホームページより引用)
鳥居をくぐり階段を上ると、正面には妻恋稲荷神社が、
左手には妻恋神社があります。
本殿(拝殿)の左わきの細い道を奥に進むと
お地蔵さまがいらっしゃいます。
また、本殿の右隣には社務所があります。
妻恋神社のご紹介
御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
弟橘媛命(おとたちばなひめみこと)
神額(扁額)には妻戀神社とあります。
おそらくこちらの御祭神は日本武尊と弟橘媛命と思われます。
倉稲魂命は妻恋稲荷神社の御祭神と考えられます。
妻恋稲荷神社のご紹介
御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
お名前のとおり稲や五穀豊穣の神様。
そして須佐之男命の御子神でもある。
お稲荷さんのお名前が有名。
日本武尊と弟橘媛命の恋
鷲神社のご紹介の際、週末ただたかで日本武尊を少しご紹介させて頂きました。
今回はその日本武尊を、もう少し詳しくご紹介です。
日本武尊といえば、そのお名前を聞いたことがない方はいないと思います。
それほど有名な神様(偉人?)です。
しかし!
日本武尊が成されたことを知らない方は多いのでは?
実は私もそれほど詳しいわけではありません。
ですので今回は浅く広くご紹介させて頂きます。
日本武尊が遠征することになった経緯
お父さんである第12代景行天皇に命じられ、日本武尊は熊襲征討に向かいます。
熊襲とは当時の九州中南部を支配していた部族(種族)とされています。
当時の日本は統一されておらず、それぞれの土地を支配する部族がいたようです。
日本武尊の熊襲討伐の逸話をご紹介。
まず女装する。
といっても、討伐当時の日本武尊は15歳ぐらいだったらしく、まだ少女にも見えなくもなかったようです。
なぜ女装したかというと、熊襲のリーダー兄弟にお酌をするためです。
そして酔わせたところで、まずは兄(たしか)を斬る!
そして逃げる弟を追いかける!
追い詰められた熊襲の弟は、殺される前に日本武尊に『タケル』のお名前を授けたとか。
熊襲討伐後、出雲のイズモタケルも討伐。
討伐方法は、
①仲良くなる
②一緒に水浴びをする→当然身に着けているものを外す
③自分の剣と相手の剣を取り換えておく
④水浴び後、「剣の稽古をしよう!」と提案
⑤取り換えておいた相手の剣が抜けない
⑥その隙に斬る
といった感じです。
さて、
熊襲と出雲の討伐方法を知って、日本武尊のイメージが崩れた方もいるのではないでしょうか?
これらの逸話から考えられるのは、
①現在とは価値観が違うので、日本武尊の手段は卑劣ではなく、むしろ見事である。
②当時の価値観でも日本武尊の手段は卑劣である。よって日本武尊は卑劣である。
可能性としては①が高いかと思われます。
しかし、②の可能性も捨てきれません。
もしかしたらお父さんの景行天皇(もしくは大和朝廷)にとって、日本武尊の存在はありがたいものではなかったのかもしれません。
日本武尊と草薙剣(くさなぎのつるぎ)
熊襲や出雲の討伐から戻るとすぐ、お父さんの景行天皇は日本武尊に東方の征伐を命じられました。
「休む間もなくあんまりだ!」
と伊勢の神宮の斎宮(さいぐう・いつきのみや)であり叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に泣きつく日本武尊。
そんな日本武尊を不憫に思われた倭姫命は、現代では三種の神器と呼ばれる宝物の一つ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授けます。
天叢雲剣を携えて東方の征伐に向かった日本武尊は、敵の罠に嵌まり炎に囲まれてしまいます。
そのとき日本武尊は天叢雲剣で周囲の草を刈り、難を逃れたといいます。
(草を刈ることで火の手の広がりを防ぐ手法が現実にあるらしい。具体的には刈った草を高く積んで、そこに火をつけると、迫ってくる火の向きが変わるらしい)
この逸話から、天叢雲剣は草を薙ぐ剣、草薙剣となったのです。
日本武尊と弟橘媛命の別れ
弟橘媛命と結婚し、東方の征伐に向かう日本武尊。
道中、三浦半島から房総に渡る際、海が荒れに荒れ、日本武尊の行く道を阻んだそうです。
そして弟橘媛命はその身を海に投げ、荒れる海を鎮めたそうです。
見方を変えればヒトミゴクウです。
この手の話は古今東西、たくさんあります。
八岐大蛇に差し出されそうになった奇稲田姫命(須佐之男命の奥さん)の逸話もその一つですな。
愛する夫のためにその身を捧げた弟橘媛命。
その逸話から、こちらの妻恋神社は『妻恋』神社なのでしょう。
ですが、
個人的にはこの逸話は美化できるようなものではないと考えています。
奇稲田姫命は八岐大蛇(斐伊川の氾濫とされている)から、須佐之男命によって救われました。
しかし弟橘媛命は日本武尊によって救われなかった。
この違いはどうして生まれたんでしょうね。
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